#カード師感想文


新聞連載中に、未曾有の大災害が世界を襲い、少なからず中村文則さんが書こうとしていた内容に影響を与えたと思う。
中村文則さんの小説はいつも目を背けたくなる現実が描かれている。
その際、人が無意識に感じる心のざわつき、葛藤などを美麗に描く。
大多数の人は、ある行動について、「それは当たり前のことだろう、無意識だろう」とそこにある感情を言語化することを諦める。
しかし、中村文則さんは、意識/無意識の二分化ではなく、何分割にもして、細やかに感情に言葉を与え、表現する。
理不尽な世の中に生きる人の心の葛藤が主として作品の中で描かれる時、社会からぞんざいな扱いを受ける人たちの抱える心の美しさ、権力だけを手に入れのけ反っている利権者の心の汚さを描き出す。

なぜこれほどまでに優しい物語を書けるのだろう、と作品を読むたびに感じる。

中村文則さんの小説を読み、自分専用の感想ノートに感想を書いてると、「鬱」という文字を書くために、自然と指が動いてる自分に気づき、ちょっと笑った。

カード師の感想に移ります。

賭博場へ行くと、目の前にいるディーラーと今日初めて会った客に、何も知らないまま自分の運命が握られている、そんな恐ろしいことがあるだろうか。
自分の運命が、目の前の存在により、快楽の絶頂へ、地獄の底へ、どこへでも連れて行かされる。
運命という点では、『掏摸』の「木崎」、『悪と仮面のルール』の「久喜家」にも通ずるとこはあるが、それらは、運命を「握られる」視点だったものである。
今回は、主人公の「新藤」が、人の運命を「握る」立場にいる。他の作品には無い主人公の立場が逆転した形だと感じた。

と思っていたが、

僕はあなたの、自由意志の領域に入り込む (p. 90)。
この引用は、「僕」は相手の自由意志に入り込んでいると思っているが、「佐藤」や「山本」という圧倒的な力によって、「僕」の自由意志はコントロールされているかもしれない。皮肉にも目の前の相手の自由意志を操作すること。つまり、操っていると思っているのが、それは操られている結果なのかもしれない、と感じた。

"R"でのポーカーの場面。
本のページをめくる感覚がひどく研ぎ澄まされているように感じた。物語に没頭している、とはまた違う、その指先を見ている自分を別のところから見るることができていたため、冷静だったはず。
この場面の描写は非常に細かく、それでいて動的に描かれていると思った。
最後の最後で、「僕」が幼い頃に諦めた手品の才により、勝負を勝ち取る場面。まるで『掏摸』や『銃』に出てくる財布を盗る、銃を握る、指先の感覚を思い出した。

「神々の沈黙」
人にまつわる事象は、全て完璧に科学で証明されて欲しくない自分がいる。この世の中の始まりから終わりまでを科学により解明していくことは非常に大事で、私たちの使命でもあると思う。昨今さまざまな場面で使用される「エビデンスに基づく」(本当に意味を分かって使っているのかと思う場合も多々見受けられるが)、という言葉が示すように、ある現象に対して理論に基づき裏付けをとる行為は重要である。しかし、人はそういうものを超えたところにある存在であって欲しい。

中村さんの作品には、よく「火」の描写がある。本作においても、魔女狩りの火刑、ドイツでの本焼き、加えてこれまでの作中での火の印象は、「抗うことのできない死へ残酷さやその美」として表現されていることが多かった気がする。しかし、今回のロウソクの火は、占いを行う時の重要な役割を果たしており、火の持つ力の強さを感じた。

もう一つ、中村さんの作品で多く描かれるのが、「死の快楽」だと思う。
「死への恐怖」を扱う作品は、この世にたくさん存在するが、死を快楽と捉えるものは少ない。それも自らの死ではなく、他人の死を間近で感じることに快楽を感じる人間の描写。毎回思うことだが、身近な人の死を感じる時、本当に人は快楽を感じてしまうのか、と。

絶対的な力による「正しさ」が強制されなくなっている現代において、我々は昔と比較すると、自由を手に入れたのかもしれない。しかし、自由には必ず責任があり、その責任を少しでも軽くするために、超能力や占いに決定権を委ねたい。自分たちで手に入れた自由により、自らをまた縛り上げたくなる。人は案外弱く、思考することを止め、恐怖を求め逃げたくなる。しかし、私たちは誰によってか、思考することが許された存在であるのだから、思う存分、目の前の現象に対して最後まで考え尽くすべきである。なぜか?この世界の成り立ちはまだ誰にも分かっていないのだから。

裏向きのカードはめくるまで、何か分からないが、そのカードが何であるかは決まっている。本当だろうか?
「私たちが知らない領域で、今、ディーラーの持つカードの裏側が、目まぐるしくランダムに変わっているのかもしれない。」(p. 290)

この言葉を読んだ時、本当に驚いた。
カードを引くその瞬間にそのカードが何であるのか決まるかもしれない。
自分の内的要因や外的要因、それらの要因が必然的に合わさった時、カードの種類が決まり、その結果に一喜一憂する。
しかし、大事なのはそこからだと言ってくれている気がした。出たカードに対しての解釈の仕方が大事であると。役が出揃うまで、カードをめくり終えることはない。人生も同じようなもので、役が揃う、つまり人生の最終地点にたどり着くまで、私たちはカードをめくり続ける。出てしまった状況をいかにフルハウスにするか、ワンペアであっても、どう逆転するか考え続けることにより、その次に現れるカードも変化する。

この向こうに何があるのか、前もって知るのが、占いであるなら、占いは存在しない(p. 186)。
日常は突然失われる。だが前兆はあったのだろう。いつの間にか私達はそういったものに囲まれ、気づいた時には遅いのだ (p. 211)。

1秒先の未来に何が起こるのかは、絶対に分からない。しかし占いというのは現実に存在する。これは、未来を見るために占いを用いるのではなく、自分たちが希望を持ちその扉を開けてその先を見ようと背中を押すための力であるのかもしれない。

魔女狩りの場面で終えたい。
「お前達がやれ。お前達は一体これまで何をしてきたのだ。こんな子供が死ぬ世界に何の意味がある?意味のある世界にしなければならないだろう。そもそもなぜお前達の神はこの惨劇を予言できないんだ。」(p. 245)

魔女と呼ばれたその人は、山のように積まれた書物に囲まれ、子供を助けようとしていた。なぜそのような人間が、周囲から除外され挙げ句の果てには、焼かれるのだろう。
神がいるのであれば、全世界が平和でないとおかしい。苦しむ人がいる世界をわざわざ神はなぜ作った?この新型コロナウイルスによる大災害を神は予言できなかったくせに、祈りを捧げよと?
馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。

どんなことが起こっても、自分の周りにいてくれる人や、少しでも関わった人の中に蠢く邪悪な部分を僕は全部背負って生きていきたい。それに耐えることができるかは分からないけど、耐えてみせる。

中村文則文学が存在し続ける限り、私はどんな状況に置かれたとしても、希望を忘れない。
共に生きてください。

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