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カントの判断力批判

今回はカントである。

広島に観光に行ってきた。写真はその時撮った原爆ドームである。
道中、高木駿「カント『判断力批判』入門」を読んだのでそれを導きの糸としてカントの美について考えてみたいのだが、原爆ドームを見て感じたのはその圧倒的な雰囲気であったので美よりは崇高に分類されるものであったかもしれない。でもまぁ今回は美についての話。

さて、カントによれば美的判断は関心によらない無関心な認識判断とは別の趣味判断とされる。趣味は、ドイツ語でGeschmack、英語ではtasteで、「趣味がいい/悪い」とかと言う時の趣味である。
認識判断(それが何かということの判断)の場合は悟性に基づく概念がその普遍性を支えているが、趣味判断では概念による普遍性を頼ることが出来ない。「バラが美しい」という場合、概念に頼るとするとバラという概念が美しいのであるとしたらバラはいついかなる時でも美しくなければならないのでありそうではないことを許せなくなってしまうのである。
ではどうしたら概念によらずに美の普遍性を確保することができるのか。
カントはそれが「伝達可能」であることに道を見出す。

概念(それが何であるか)なしに伝達可能なものがあるとしたら、客観的普遍性を拠り所とすることは出来ないので、それは主観的な普遍性でなければならない。僕たちは概念によらなくても普遍妥当な「共通感覚」を持っているからその主観を伝達することが出来る。
僕たちの認識が伝達され得るとしたら、その認識を成立させる能力の調和も伝達可能でなければならない。認識を成立させる能力は悟性や構想力である。しかしそれらの能力の調和はその能力によっては知ることは出来ない。調和の普遍的伝達可能性があるとするなら、悟性や構想力によらない「共通感覚」がなければならないのだ。

カントの美的判断力の普遍性は、伝達可能性=共通感覚としてある。
僕たちが「バラが美しい」と思ったとき、隣にいる人に「バラが美しいね」と言ってそれが共感されることを期待しているのだ。
それがカントの言う美の普遍性である。

これが僕が高木本から学んだカントの美的判断力なわけだが、ところでカントはなんでこんなことを考えたのか(ここからは高木さんの「カント『判断力批判』入門」を離れていく)。
「純粋理性批判」で理論理性(それが何であるか)の限界に、そして「実践理性批判」で実践理性(僕たちは何をすべきか)の限界に線を引いてきたカントが、「判断力批判」での美と崇高の考察で限界づけたものは何だったのか。
カントの三批判書は古来哲学の主題として扱われてきた真・善・美に対応している。僕的には真はモノの問題であるし、善はヒトの問題である。では美とは何の問題なのか。
ここにカントが「伝達可能性」や「共通感覚」をもってきた理由があるのだと思う。美の問題とは、関係性の問題であり、セカイの問題なのだ。

カントの「判断力批判」は、僕たちの表象の諸能力(つまり悟性や構想力)の調和の形式としての美と、それを超え出ていくものとしての崇高について考えていた。
そこには僕たちの趣味判断の限界がある。
僕たちは美や崇高を、概念に支えられる真理や意志による道徳のようには普遍的に持つことが出来ない。
それでも「バラが美しい」ことや「原爆ドームが崇高である」ことを共有することが出来る。
それは僕たちがセカイを共有し、伝達可能なものを共通感覚として持っているからなのだ。
カントはそこに線を引いてセカイの内と外を分け、その外側の思考を理性の越権行為として批判する。セカイの外にある伝達不可能なもの(語りえぬもの!)については理性がその性質上どうしても持たなければならないものであるがしかし共有不能なので理性がその権利の範囲を越権しているのだ、という訳だ。

哲学は「普遍性」の探究という側面をもつ。
僕たちが「僕たちは」と語ることが出来る部分についての思考。
カントにとって真・善に続いて美について僕たちのもつ普遍性を根拠づけることは課題だったのだろう。
しかし今の僕たちは「僕たちは」と語ることに慣れすぎているように思う。
カントからの学びを、もう一度「僕は」と一人称単数で語ることに活かすことも、今や有意義なことなのではないか。
旅先でそんなことも考えていた。

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