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デリダを読んでいく④~ハイデガーvsデリダ『ハイデガー 存在の問いと歴史』(ジャックデリダ講義録)を読む

今回はデリダのハイデガー講義を読んだ。
1964~65年の全9回の講義録である。ハイデガーの『存在と時間』を中心に『形而上学入門』『ヒューマニズムについて』など中後期の著作も視野に入れつつ読解していく講義となっており、特にフッサールやヘーゲルとの共通点や差異などについては非常に細かく追求をしている。
講義の副題が「存在の問いと歴史」であるように、講義の後半では現存在(言わずと知れた『存在と時間』の中でハイデガーが人間を指して使った言葉である)の歴史性・時間性ということがテーマとなっている。そこにはなぜ20世紀最大の哲学者とも言われるハイデガーの主著とも言われる『存在と時間』が未完の書物であるのか、ということの謎解きの一端を見て取ることもできる。
さて、ここで講義の内容の詳細をまとめていってもよいのだが、僕は基本的にはぜひ参照している本を手に取って、あるいはダウンロードして欲しいと思っているので、細かい内容の紹介はあまりしておらず、自分の気になった所だけをちょっと掘り下げていくということをしている。
しかしさすがに連続した講義録なだけあって、全くそれをしないとなると何を言っているのかようワカランみたいなことになってしまうので、まずはごくごく簡単にではあるが、内容について少し触れてみたいと思う(これには訳者のあとがきを大いに参考にさせていただいている)。

講義第一回では講義タイトル「存在の問い」ということの意味が説明される。ハイデガーは存在論を構築しているのではなく、存在を問おうとしているのだというのだ。
第二回では「存在の問い」と歴史との関係、そして「存在の問い」と現存在の分析との関係が語られる。
続く第三回では「存在の問い」のためのあらかじめの存在という言葉についての何らかの了解についての議論が展開され、第四回では「存在の問い」を問うものとしての私たち=現存在が規定され、現存在の時間性と歴史性の関わり、歴史についてのハイデガーの考え方についても考察される。
第五回・第六回ではフッサールの歴史についての考察=現在の特権化の批判が検討され、現存在の歴史性においてそうした現在の特権化の解体こそが必要とされることが示される。
第七回から第九回まで、講義の後半部分においては、これまでの現存在の歴史性の議論を踏まえていよいよハイデガー自身の『存在と時間』におけるその解明の読解が試みられていく。
デリダによれば、ハイデガーは現存在の歴史性について、「息切れ」を起こしている。本来的/非本来的歴史性及び本来的/非本来的時間性の議論や、「自己伝承」(『カントと形而上学の問題』において提示される)に関してもデリダは批判的である。

まぁこうまとめて書いてもなかなか理解困難な内容ではあるのだが、デリダによるハイデガーの「存在の問い」ということについての解説、特に歴史性という時間性の様態における批判というのが大筋ではなかろうか、と思われる。そして、ハイデガーの「息切れ」とデリダが指摘していること(つまりはデリダが『存在と時間』の中でハイデガーが試みている現前の形而上学に対する批判の失敗がこの本が中途で終わってしまうような必然性を抱え込んでしまっているということ)は、そのまま『存在と時間』を読解していくデリダの、ひいては僕たちの「息切れ」であろう。
ともかく、講義全体は20世紀の大陸哲学に大きなインパクトを与えたであろう『存在と時間』という本についてのデリダの解説と批判的検討、という訳だが、とにかくたくさんのトピックを語れる講義なので僕自身の興味と引き付けたコメントのみをさせていただくこととしたい。
「存在の問い」という訳なのだから、やはりそれを問う者がいるわけだ。それが現存在(Dasein)の特権的なあり方であったりして、やはり問う者は現存在なのである。そして、現存在は世界内存在として他の現存在と共存在している。であるからこそ、「存在の問い」は非‐歴史的ではありえず、歴史性を伴ったものでなければならないのである(そしてこれがフッサール批判の根っこになっていると僕は思うが)。
そこで、僕は思うのだ。本当に、僕たちは「存在の問い」を単独で(一人ぼっちで)問うことはできないのだろうか、と。
「存在の問い」のベースには、あらかじめ存在了解(とにもかくにも存在しておりそのことが分かっていること)があるのでなければならない。だからこそ「存在の問い」は現存在の特権であるわけだが、僕(たち)はいつ現存在となり「存在の問い」を問うことができるようになるのだろうか。
これは言葉の問題とも絡んでもっと考えていかなければならないことであろうが、ハイデガーを読んでもいつも「あること」は「(共に)あること」であることが当然の前提のように語られている気がして、置いてきぼりにされたような気分になるのだ。
僕はいつもここからスタートしている気もする。

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