デリダを読んでいく①~『ジャック・デリダ「差延」を読む』を読んで「差延」を読んでみた
突然だがデリダについてはずーっと挑戦しようと思っていて、購入した本が積まれている事態となっていた。
なかなか挑戦の機会が得られなかったのだが、この度『ジャック・デリダ「差延」を読む』(森脇透青・西山雄二・宮崎裕助・ダリンテネフ・小川歩人共著)を読んだので、「差延」(『哲学の余白 上』所収)を読んでみることにした。僕にとってはそれでも難解な文章であることに変わりはないのだが、少しだけ分かったこともある気がしたのでここに記しておこうと思う。
「差延」論文はそもそもフランス哲学会においてデリダが自らが提示した「差延(différance)」という特殊な言葉を説明した発表が元になっており、発表の後には、討論なども行われたらしい。
僕にはその内容にここで踏み込んでいくことはできないが、興味がある向きは『ジャック・デリダ「差延」を読む』を参照してみてほしい。
僕の「差延」論文への関心は、やはり、ハイデガー及びその後の哲学者たちが抵抗し続けた形而上学との関連である。20世紀最大の哲学者とも言われるハイデガーは、特にその後期の思索において西洋形而上学との対決姿勢を明確にしている。とはいってもハイデガーは、形而上学とは別の立場を打ち立てることを目指していたわけではなく(そんなことをしても別の形而上学を成立させるだけである)、脱去する(=人間から常に抜け去っていく)「存在」を捉えられないままに受容し新たな思索への道を模索するというスタンスをとるのである。
デリダの「差延」も非常に近い立場をとっていると僕には思える。ここで形而上学とは何か、ということを一応ウィキペディアから見ておこう。
なかなか難しい言い回しであるが、真実を真実たらしめているものは何なのか、その探求を形而上学と言う、と考えて良いと思われる。それが神の摂理なのか、数学的な実在なのか、人間の認識のあり方なのか、私に現れる現象なのか、まぁ古来僕たちは真実を真実たらしめているものを様々に考え、形而上学について侃侃諤諤の議論を繰り返してきたという訳である。
ハイデガーもデリダも、その「何が本当の真実であるのか」という形而上学的な議論は結論が出るものではないので、もうやめにしようではないか、と言っているのだ。
そのために(いや、そのために、ではなかったかもしれないのだが…)ハイデガーは「存在論的差異」ということを言っている。それは存在者と存在の区別である。言い換えれば、それが何であるか(…である=本質)ということと、それがあるということ(…がある=実存)の区別である。存在者は必ずそれが何者かとしてある(本質をもつ)のだが、それが現実に存在している(実存する)かどうかとは別のことなのである。
ハイデガーは僕たちが形而上学を通じて真実として物事の本質(存在者)ばかりを追求して、存在については忘却してきたという。だから先ほども書いたように、形而上学と対決し、存在忘却する僕たちを何とかしようと格闘したという訳だ。デリダが「差延」論文で言及しているハイデガーの「アナクシマンドロスの箴言」論文はまさに存在忘却を避けがたいものとして受け入れつつ新たな思索への道を求めていくものである。
しかし、デリダはそれに満足しない。「差延」はどこまでも形而上学の隙間を突いていく(デリダは他にも色々なズレていく言葉を使う)。形而上学批判はハイデガーも例にもれずどうしても別の形の形而上学だと読まれてしまう。ハイデガーの「存在」という言葉も、形而上学的なものと考えられて読まれてしまうのだ。僕たちが「あるもの」(=存在者)を見出すとき必ずその背景(=根拠)としての形而上学もまた見出してしまう。ハイデガー(特に後期)もデリダもそのことを知らない訳もなく、どうにかしてそれを避けようと様々な言葉を駆使している。「ある」のように存在を表す語に抹消記号を付けるようなことまでしている(ハイデガーがやったことだが、「差延」論文の中にもそれを踏襲した表記が登場する)。
デリダは他の文章の中で、「差延」と同じ効果を求めた表現として、「痕跡」とか「散種」「代補」「原‐エクリチュール」など様々な表現を使う。それらの具体的な使われ方については僕がこれから格闘していかなければならない宿題であるのだが、ここにはソシュールの差異の言語学やドゥルーズの差異の哲学とはまた違ったデリダの哲学の特徴みたいなものを感じることができるのではないかと思っている。だからわざわざ差異(différence)とは別の差延(différance)なる言葉を使っているのだ。
「差延」は、ハイデガーの問い続けた「存在」と同じように、形而上学(=独断的に正しさを定めるもの)に抵抗するためのデリダのアイデアであるように思う。どうして形而上学にここまで抗していかなければならないかはまた改めて記してみたいとは思うが、20世紀西洋の哲学者にとって二つの世界大戦やナチスドイツの暴挙、植民地主義への反省など様々な要素で、自分たちが「正しい」と考えてきたことが実はそうではないのではないかという疑問に常にさらされたという状況はあるだろう。現在の僕たちにも決して無縁な話ではない。「正しさ」の問いは常に僕たちに突きつけ続けられている。デリダは「差延」という言葉を使いつつ、僕たちの陥りがちな独断的な形而上学への抵抗を示しているのではないだろうか。
しかも同時に、それでも尚、これが「正しい」のだ、と言えるようにしていかなければならない。何でもかんでも良いのだ、ということではない(いや、何でもかんでも良いのだが)。そんな不安定なつり橋みたいな道をデリダは僕たちと一緒に歩もうとしているように僕は思う。
これからまたデリダの他のテクストを読みつつ、その歩みを少しでも確かなものとできるように、このnoteにも書いていってみたい。
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