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関係デザインサミット、午前中だけ参加できた。12時までだなと思って、質問しよかなと思ったら11時45分くらいで終わっちゃったので、できず。引っ込み思案が出てしまった。

お話を聞いていると、「祭」や「村」などいわゆる日本の文化に紐づくワードも良く出てきたなと思う。

振り返れば、お祭もそうだし、年賀状や暑中見舞い、お墓参りなど、日本には関係をゆるく保持してくれるものが、年1回ずつ、でも適度にある。

同質性が高く、村社会化することが多い日本においては、この「適度に離れているけど、たまにアテンションがある」というバランスは良かったんじゃないかなあ。

まあ今となっては、いわゆる伝統的な祭や年賀状なんかは「昔からやってるからやらなきゃいけない」という伝統的な支配からの脱却と形骸化に伴って、シュリンクしているけど(コミケやゲムマ、MakerFairみたいな共愉的かつ創造的な交歓が行われる場には、新しいお祭が生まれている。お祭かイベントの違いは「シンボルの有無」だと言われるけど、最近の祭は中心がほぼなく、参加者の交歓で成立しているところは面白いなと思う。ヒマラボもシチズンサイエンスもそんな感じがあって好き)。

日本において身近にあった、適度に関係しあう行事などの価値と行為を掘り下げてアップデートしてみれば、新しい関係やエコシステムの作り方のヒントがあるのかもしれない。

今年の2部ゼミや後期の2年ゼミあたりからやっているのは「日常の探求」
傘やカーテン、メガネに布団とそれぞれ日常にありふれたものをひたすら掘り下げながら、新しい商品を考えてみるという活動。

カーテンの本来の価値は、遮光ではなくて「部屋の仕切り」で、動物の革で作ったことから始まっているなんて、掘り下げてみないとわからない。仕切りとしてのカーテンを考えたらどんなことができるだろう。異素材のカーテンも色々考えられる。

始めた意図は、日常で目に入る全ては自由研究の対象になるという姿勢を持ってもらえると、まあビジネスにせよ人生にせよ、豊かになるよなと思ったからだ。効率よく休むみたいな「休みの仕事化」から、ぼーっと何かについて考えてみることが愉しくなるといいなって。

でも、少し昔の日本の風土や習慣に目を向けて同じ取り組みをすると、社会包摂性のある関係作りのヒントも見つかるかも。


「誰かに何かを聞く」という行為は関係つくりの一歩目だけど、人間のストレスを減らすためにテクノロジーとインタフェース、UXが進展してきたことは、「誰かに聞かなくてもわかる」を推し進める(ちょっと前の人間中心的でしょうか。誰かを助ける、というのも一歩目だけど、助けなくてもよくなっている)。

車、スマホ、インスタにChatGPT。技術が理解できなくても使える。ほとんど聞かなくてもできる。コンビニの使い方、ユニクロの商品。この商品がどう作られて届いているのか、知らなくても買える。聞かなくてもわかる。

つまり、関係しなくても良い方向に進む。

誰かと関係しなくても一人でなんでも決められる、というのは「個人化」と呼ぶのかなと思うけど、一人で決められるのは、関りを減らして公共を失わせることに繋がる(と言われている)。でもがっつりした関係つくりはストレス源になるから、流通や製造も含めてテクノロジーによってもたらされた現状を巻き戻して、関わりましょうよ、挨拶しましょうよ、みたいなのは難しい(というか、コミュニケーション力格差による分断みたいなものになりそうで。ますますメタバースへGO。繋がりは作れるけど、置いてけぼりの身体はどうする)。


そこそこゆるい関係性を長く作るための習慣のアップデート。

そういうことを、検討してみてもいいなと思ったりしたけど、質問できなかった。

だめじゃん。

最近は地域にも入ったりはするけど、地域との関係以前に、家族との関係はどうか、学生との関係はどうかを考える方が大事だよなと思いつつ、アビスパ福岡の試合を見に行ったのでした(息子との関係デザイン)。

スタジアムはどこか観客は自律分散的だけど、なんだか繋がりも感じられる場所で不思議だけど、関心には近い。

相手がひとり退場したのに0-0で引き分け。

だめじゃんだめじゃん。

わが子が結果にモヤモヤして、部屋の中でドリブル練習しまくっていた。

チームとサポーターの関係が良くないと、我が家の壁が壊れてしまうので、次は勝ってほしい。あれ、アビスパ福岡の話だったっけ。

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