本居宣長と「もののあわれ」

【もののあわれ】
 本居宣長は「もののあわれ」を日本の文芸の本質だとしました。もののあわれとは、源氏物語に流れる、一貫した美意識のことです。「あわれ」は、感嘆詞の「ああ」と「はれ」の合成語で、もともとは感動を表す言葉だとされています。もののあわれは、窮屈な宮廷暮らしの女性たちの心から生まれました。例えば、情緒的な「哀愁」や「憂い」など、繊細で儚い女性的な心情のことです。もののあわれは、日本文学の理念を構成する要素の一つだとされています。本居宣長は、文学に限らず、その感覚は、日本の文化全体を象徴するものだとしました。それが生まれるのは、人の心が、外観の事物に触れた時です。

【真心】
 本居宣長は、美しいものを見た時、素直に美しいと感じられるべきだとしました。感じたままの真っ白で素直な心を「真心」と言います。本居宣長は、その真心に従って生きることが、人間本来のあり方だとし、芸術的な美の直感をまず優先しました。しかし、現実的には、なかなか真心に従うことが出来ません。何故なら、我々の心は「先入観」や「固定観念」に縛られているからです。
 人間は、社会の道徳的な価値基準によって、自然な真心を阻害されています。真心には、そもそも道徳的な判断は必要ありません。物事を善悪で判断するのは、儒教的な価値観だからです。本居宣長は、そうした価値観には否定的でした。それらが、もともと日本のものではないからです。儒教的な考え方は、中国から輸入されてきました。

【漢意】
 中国由来のものの考え方を「漢意」と言います。漢意「からごころ」とは、仏教や儒教に影響された心のことです。本居宣長は、それを中国の思想に対する批評用語として使いました。日本人は、知らず知らずのうちに、日本文化に内在する仏教や儒教などの中国思想を正当化しています。仏教は、インドが起源ですが、日本の場合は、中国を経由して伝わっているので、きわめて中国的な仏教でした。
 また、江戸時代の官学は儒教です。儒教は、どちらかと言えば道徳的な学問で、形式的で堅苦しいところがあるとされています。なぜなら、様々な決まり事で、人々を縛ろうとするからです。本居宣長は、儒教的思考が、人間本来の生き生きとした感情を抑圧していると考えました。

【大和心と惟神の道】
 漢意の対義語が「大和心」です。大和心「やまとごころ」は、大和魂とも言い、日本古来から伝えられてきた伝統的な精神のことです。それは、芸術や風習などの日本の文化の中に内在し、独自の精神性として、日本人の生き方の根底にあるものとされています。本居宣長は、大和心が、日本人的なものの見方や、考え方を支えているとしました。
 日本固有の宗教と言えば「神道」です。その神道のことを、惟神「かんながら」の道とも言います。神道には、経典や教義がなく、または開祖もいません。その目指すべき所は、儒教の道徳や仏教の悟りとは異なります。
 神道では、全てのものは、神々の御心のままに、おのずから生まれてくるものだとされています。全ての出来事も、その神々の相互作用が働いて、決められた結果にすぎません。本居宣長は、そこに人為を加えるべきではないとしました。日本人のご先祖様を遡っていくと、神話の時代の神々にまで辿り着くことが出来きます。日本という国は、これまで日本人のご先祖様が作ってきました。もし、ご先祖様がいなければ、我々は存在しません。そのご先祖様に感謝を表すのが「祖霊崇拝」です。そのため、神道には、その祖霊崇拝的な要素もあります。

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