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<われ-なんじ>と「純粋経験」

マルティン・ブーバーの代表作と言えば『我と汝』。世界認識の仕方を、<われ-なんじ>と<われ-それ>の2つに分けて述べた書だと言われています。

あくまでも個人的な理解に立つと、ここで言われる<われ-なんじ>とは、人と神との出会いのことなのでしょう。しかしながら、人は神のすべてを受容し、また言葉にすることはできません。それは神が人を遥かに超えた存在だから(神のいうものが、そもそもそうしたものとして考えられているから)です。でも不思議なことに、人は神と出会うのだと言います(ここは、経験したことがなので、あくまでも受け売りですが)。ではどうやって?

結局のところ、こうなるともう神秘主義の世界を引っ張ってこなければならないのでしょう。

ところで、ブーバーが言わんとしたところの理解を試みる上で、一つのヒントになるのではないか、という考え方が、西田幾多郎によって提示されています。それが「純粋経験」です。

「純粋経験」というキーワードに寄せて西田が言いたかったのは、あくまでも主客の未分化な状態のことですが、ブーバの言う<われ-なんじ>というのは、まさにその主客未分化な状態なのではなかったのか? そして<われ-それ>とは、そこから主客が分化した状態のことなのではないか、という訳です。

そうしてみると、神との出会いとは、人にとっての全存在的な経験であり、それも文字通りの経験でしかないのでしょう。それは丁度、雷に撃たれたパウロのような。

ですから、その経験をつべこべと言葉に紡ぎ始めた時には、それはすでにその端切れでしかないのです。そして私たちはと言えば、そうしたものの端切れをどうにかこうにかつなぎ合わせて、そうして得られたものから想像力逞しく、その原初の姿を推測してみるしかない―、そんなものであるように思うのです。