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祖先崇拝について考えてみた(のだが…)

氏神が祖先神に横滑りした、というようなことを書きました(https://note.com/hima_gine/n/n2b47d8ab9941)が、その後で足りないところがあったことに気がつきました。祖先崇拝についてです。

氏神の役割が、同族の者たちのアイデンティティーや団結力の醸成と強化にあるとすれば、祖先神が受け持つ役割は、歴史上の時間軸を与えること、それも折り紙付きの時間軸を、です。そしてまた、それが同族の者たちのアイデンティティーを増強する―そうした循環の始点となることです。

こう考えてみると、この両者の受け持っているのは、同時代性と通時性という、異なる軸に沿った役割であることになります。しかしながら、わたしの見立てによれば、まず氏神ありきで、それが祖先神に横滑りした、というわけですから、そうさせるに足る何かがすでに存在したのではないかとも考えられるのです。

それはつまり、時間軸に沿った由来であり、歴史に対して認められた価値であり、言葉を変えれば、祖先崇拝に相当するものが、横滑りに先行して存在していたのではないか、ということです。

ただそうは言ってみても、実はあまり具体的なイメージが湧いてこないのもまた事実です。

実際のところ、まずは時の流れを歴史として捕える視点をどのように獲得したのかという疑問が頭を擡げてきます。例えば、古代社会においては一体何世代が同じ時を共有していたのでしょうか? そして何世代前までの記憶を共有できていたのでしょうか?さらにはまた、そうして遡ることが出来た先の存在を崇拝するにたるものとして認めることが、どのようにして可能になったのでしょうか?

こうして考えてみると、またしても出発点を間違えたような不安に襲われてきます。あるいは、そもそも横滑りに先行して祖先崇拝というが存在していたことはなく、祖先崇拝とは、あくまでも横滑りの結果として生まれてきた概念に過ぎないのではなかったかと。

でもだとしたら、横滑りは何故起こったのでしょう? 話は振り出しに戻ってしまいました。