見出し画像

神義論とヨブ記

神義論―敢えて簡単にいってしまえば、何故に神が悪の存在を許しているのか、という問いとそれに対する応答。この言葉を枕詞に、よく引き合いに出されるのが『旧約聖書』の「ヨブ記」です。
確かに、その物語の中で主人公のヨブは、神の許しの下、サタンの手に委ねられ、謂れのない苦しみに打ちのめされます。ヨブならずとも、そんな目に遭えば、神に悪態の一つもついてみせることでしょう(ちなみにヨブは、自分がサタンの手中にあることを知らないのですが…)。
がしかし、「ヨブ記」の主題は本当に神義論なのでしょうか?さらに言えば、その答えへと開かれたメッセージなのでしょうか?
なるほど、「ヨブ記」は私たちに様々なメッセージを発しているように思われます。もちろん、その中から神義論的な枠組みを引き上げることも可能ではあるでしょう。しかし、それで結論付けてしまうには、「ヨブ記」の包摂するものは大きすぎるように感じられてなりません。
少なくともヨブ自身が至った物語の最後に地平に、そんな問いは転がっていなかったのではないでしょうか。