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私の文章作法

一言で文章といっても、その作法には色々とあるようです。

その昔、ある作家さんが「すべて決まってから書き始めるので、書き始めてからは早い」といった類のことを記しているのを読んで、ひどく感心したことがあります。すべてを空で書きとどめられるとは、と。

囲碁や将棋のプロ棋士たちは、かなり先の手まで読むことができるようですが、ちょうどそんな感じなのでしょうか?

それに比べてこちらはと言えば、ただのアマチュア、ヘボな打ち手、指し手に過ぎないのですから、先行きのことなど、その都度都度で思いあぐねることしかできません。何を書くか、どう書くか。すでにその段階で目いっぱいです。ましてや、それが一定の文量を求められていた際には、書き出すことが、どれだけ気の重いことか。

そうしたわけで私の場合には、それがどういった類のものであれ、まずは思いつくまま文量の確保に走ることになります。量より質とも言われますが、一定の量がないことには、質は担保されません。中身や体裁は後で整えればよい、とばかりに、まずはとにかく、あれやこれやと書き連ねていくのです。考えてから書くというよりは、書きながら考えるといった感じです。

そうして、最低限の文量を稼いでからは、いよいよ推敲です。私にとっては、散々書き散らかしてきた文章を、精巧で精緻なものに磨き上げる時間です。それどころか、構成そのものを一から見直し、換骨奪胎なんてこともよくあります。それこそが私にとっての愉しみだからです。実に愉しい時間です。

前とは別の作家さんは、駆け出しのころ、100枚の原稿のために1000枚の原稿を書き、それを削ぎに削いで100枚の原稿にしたという由のことを記していましたが、私にそこまでのストイックな覚悟はありません。もちろん削ぐところは削ぎ、見当違いなものは削除もしますが、多くの場合、枚数は膨らみます。おそらくは書き急ぐあまり、そのまま捨て置いておいた文章間の断層を埋めたり、ダマのままになっていた表現を潰して展開するからなのでしょう。

問題は、その時間が楽しすぎて、自ら終わらす踏ん切りがつかないことです。

また別な作家さんは、作品の完成時を、印刷所の締め切りが来た時、といったようなことを記されていましたが、プロの作家さんならともかく、アマチュアのヘボに、そんな強硬手段を用意してくれる人は存在しません。という訳で、その時は、何かの外的な要因で時間を奪われるか、失敗を悟って飽きが来るその時まで続けられるのです。

その原因の多くは、実際に文章を起こす時よりも、それを推敲する時間の方が、私には愉しいからなのです。だからこそ、いつまでもこの時間を引き延ばしておきたい。きっとそうした心持が私に、よく言えば未完の断章を、現実的に言えばただの書付の束を、量産させているのです。