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ヨナは何故、神に怒りをぶちまけたのか

ヨナは、旧約聖書の登場人物としては珍しく、神に対して怒りを露にします。

最初の怒りは、神が、自らニネベに下すと告げていた災いを思い直した時に向けられました。

これだけだと、まるでヨナがニネベへの災いを望んでいたかのようです。ですが、決してそうではありません。というのも、後のやりとりで明らかになる通り、ヨナは、神が災いを下すことを思い直すほどに「恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富」むことを知っていたからです。

すると、ヨナは一体何に怒ったのでしょうか?

素直に考えると、それは神がヨナに命じた役回りにあったとしか言いようがありません。

つまり、ニネベに災いを下すと言いはするものの、ヨナは、神が結局は許すことを知っていたのです。ですが、神にはニネベが悔い改めるため、自らの言葉を伝える者が必要でした。それで指名したのがヨナです。ですがヨナからすれば、どうせ結果が目に見えている以上、神に従うことは無駄骨でしかないのです。だから「主の御顔を避けた」のです。

ですが、大きな魚に飲み込まれて一度死に、そこから生き返るという面倒を踏んでまでして遣られたニネベで、ヨナは、思った通り、神がニネベのことを許すさまを目の当たりにさせられます。「そら、言わんこっちゃない!」

もちろん、ヨナが神の思う役回りをこなしたことでニネベは救われたのですから、まったくの無駄骨というわけではありません。ですが、それでヨナが納得するわけではありません。二度目の怒りが、それを如実に語っています。とうごまが枯れた時の怒りです。

これに対して、神はヨナがとうごまを惜しむのだから、神がニネベを惜しまずにいられようかと諭します。ただこの言葉は、どう考えてもヨナの怒りに沿ったものではありません。なぜなら、この折のヨナの怒りは、劣悪なものとなった自らの境遇に対するものだったのだからです。

つまり、ヨナの怒りは一貫して、神の、ヨナの扱いに向けられていたのです。

そういう意味では、最後の神の返答には、ヨナに対する強烈な反撃を窺うことができないでもありません。つまり、とうごまの運命には、言わばヨナ自身の運命もが重ねられている、という読みです。そうすると、神がニネベを救うためには、ヨナ一人のことなどなにほどのものか、と取ることも可能になるのですから。

こうしてみると、ヨナ書から読んで取れるのは、まるで神にはこの世に自ら直接介入する力がないのかと疑わせるほど、ストイックなまでにそれを控えられていること、だからこそ預言者を必要としていること、そしてそう考えれば考えるほど、預言者がいかに過酷な身の上にあるのかということでしょうか? それならば、ヨナの怒りもわからないではありません。

ただ、その場合にはあと一つ。神の慈しみが、ヨナの怒りさえも受け入れ、向き合っていること、それも忘れてはならないのでしょう。