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『行ったことがないのである。』

はじめましての方ははじめまして。また読んでくれた方はありがとうございます。hiloaki.kと申します。随分と更新が遅くなってしまいました。
今日は僕がスペインに行ったことがない話について、をラフなエッセイ調で書いていこうかと思います。長くてわかりにくいかもしれませんが、連休中の小話だと思って少しの間お付き合いくださるとうれしいです。

1. 行ったことがない

スペインに行ったことがない。

スペインに行ったことがないのである。これは僕にとっては結構かなり大変、由々しき事態なのである。
サグラダファミリアを見たことがない、ただこの一点だけなのだが由々しき事態なのである。

ごくごく最近、これに自覚的になったのでちょっと詳しく書いていこうと思う。

国内・海外の旅行にはありがたいことに両親の援助もあり何度か行かせてもらった。大体の目的は建築を見ること。
建築を見たさに山を登り、一日かけて一個の建築を見に行ったりする。たとえ海外でバスが一日に四本しかなくても果敢に攻める。
とはいっても、一般的な観光よりは若干ハードではあるけれどほとんどそれと一緒に近い。僕の場合は加えて写真を撮るということが加わる。

さて、そんな風に海外に行っては建築を見ている僕がなぜたった一つ「サグラダファミリア」を見れないことの問題があろうか?

サグラダファミリアなんて写真では何度も見たことがある、図面も見た、テレビ番組で特集が組まれれば見るくらいには好きだ。既に旅行で行ってきた人に何度も話を聞いた。

建築が特段好きでもない日本人の誰しもに聞いても大体知っているサグラダファミリア。
「建築勉強してます、旅行好きなんです」と建築専攻でない人に言ってしまったら、十中八九「建築ならスペインとか行った?」「サグラダファミリアすごかったよ」と返すくらいにはみんな行ってるし、みんな知っている。

二次的な体験として、僕はほとんどサグラダファミリアに行ったことがあると言っていい。未踏の僕が言うのもあれだが、行けばほとんど知っている景色を確認する作業になるだろう。
「あーあれ写真で見た~」「あーここから撮ってるのか~」体験が繰り広げられる。

そうやって、写真や図面で予習を重ね、建築への感動を得るよりもむしろ確認作業を繰り返すことになる。学生でお金がない僕らには一泊も惜しいので、短時間でできるだけ多くの建築を巡ろうとする。海外に行ける機会なんてなかなかないわけだし。
もし、スペイン旅行に行けたとしてその旅行は建築系の人たちに揶揄されがちな「建築スタンプラリー」旅行になり果てるわけだ。

だから「あまり人が行かなそうな行きたいところに行く」ことにしていた。そうすれば、例え多くの建築を短時間で回っても他の人は知らない場所に言っている。スペインでサグラダファミリアなんてベタベタのベタじゃないか…なんて邪な気持ち込み込み。

そんな斜に構えたこともあって今の今まで行っていなかった。

しかし、そうでもなさそうなことに今になって気付いてしまった。

その前に、そもそもなんでこんな話を書き始めたのかを説明したい。

2.リアリティの限界

なぜこんなだらだらとスペイン旅行に行ったことがない話をしているかというと、別所さんのnoteを読んで心がかなり揺さぶられたからだ。

リアルとリアリティ。現実世界があること(=リアル)と、現実世界で「生きること」(=リアリティ)の差異から、丁寧にこの二つの似て非なる概念をしっかりと引き離す作業をされていた。

匿名ダイアリーに綴られたある会社員の在宅勤務での独白を起点に「リアル」が持つ圧からの解放と同時に起こっている、リアルから完全には逃れられない人間の性質故の「リアリティ」を指摘している。リアリティが達成されることは人間のある種本能であり、このためにツールを媒介したり、ゲームなどの仮想世界を通すことを行う補完作業に可能性を見出している。
一方で、リアルからは完全には逃れられないからこそ「アフターコロナの世界」で『再びどこかで会うために』と締めくくられた。想像力を膨らませて、加速度的に進化しうる世界で会えるように。

2-1. zoomという媒介

その中から二文を引用して話を進めてみる。

キーワードは「リモート技術」と、それがもたらす僕らの「想像力」の拡張だと思っています。それがアフターコロナの世界に見出す希望であることを、僕は今日書いておきたい。
     出典: 別所隆弘「アフターコロナの世界をめがけて」
         https://note.com/takahirobessho/n/ndf782a33bb7c

僕自身はこのリモート技術の恩恵を十二分に受けている。
リモート研修が即日始まり、自宅で講義を受けたり業務を行う。

まだあまりリアルでは顔を合わせていない同期たちとzoom飲みを行ったりもした。
部屋でただpcに向かって話しかけているのだが、仮想的な空間上にテーブルが存在していてそこに皆で座っている状態である。なんとなくぎこちなさは薄れ、段々と仲良くなっていく。

僕らが選んだzoomは、リアリティを確かに生み出す。

ただし、リアルな場所を知らずにリアリティを得る場となるzoom上ではどれだけ会社のシステムを説明され、雰囲気を話されてもリアルを知らないがゆえに「現実」としての影響がない。ここに来て初めて現実「空間」が意味を持つのではないだろうか。対面だからどうこう、という話ではなくただ「場所」があるということ。

どれだけzoomを重ねても会社は掴み切れない。
つまり、リアルからリアリティを引き離すのではなく、リアルなしにリアリティから出発するときはリアルには決して辿り着かず、アフターコロナの世界でリアルに足を踏み入れた時に初めてリアリティは「リアリティ」として切り離される。

2-2. 写真という媒介

同じく、別所さんのお写真とツイートを引用する。

無自覚にある場所の記憶についての呟き。「実は…」からはこちらの想像力は及ばなかったけれど、僕はそこになんとなく人の気配があるような気がした。(リアリティ)

また、過去の「逃走の限界点」というリアルの端部が別所さんの写真の中で現れる。するとそれ以上先は別所さん自身が想像力で(過去の記憶の先を)補うことになる。(リアル'=リアル+想像力)

リアルがある個人に強く存在して、写真というメディアを媒介にしてリアリティとして別の個人に受け取られる。というわけではないだろうか。

2-3. メディアの媒介

リアルは決してリアリティを繰り返しても実際に「場所」に行くことでしか手に入れられない。

一方で、zoomや写真を媒介にして、リアリティを生み出すことはできる。

特に写真家の写真に宿る「メッセージ性」とは正にこのリアリティを生み出せるかどうか、ということなのだろう。

で、スペインに行ったことがない話とスタンプラリー旅行に戻ることにする。

3.リアルへの自覚

試しにgoogleで「スペイン旅行 建築」と検索してみた。

サグラダファミリア(というかガウディ)のオンパレードである。
instagramで検索してもあまり変わらないだろう。正面から見た画角、内観、彩度マシマシな空。
そして建築を学んだ僕はある程度なら図面を見れば想像もできる。

リアリティをこの体験を経てどんどんと獲得している。

しかし、いつまで経ってもリアルは手に入らない。
どこまで行っても、想像力の限界の先にはいけない。
どんなに友人の話を聞いてもリアルを手に掴むことはできない。
建築のスタンプラリー旅行でも、インスタ旅の観光スポットでも、リアルとして足を踏み入れた人とは圧倒的な差がある。

スペインに行ったことがないのである。これは僕にとっては結構かなり大変、由々しき事態なのである。
サグラダファミリアを見たことがない、ただこの一点だけなのだが由々しき事態なのである。

zoom、そして写真を通して様々なリアリティを得ようともリアルを手にすることはできない、と分かってしまった今だからこそこの由々しき事態に気付いた。

「建築勉強してます、旅行好きなんです」と建築専攻でない人に言ってしまったら、十中八九「建築ならスペインとか行った?」「サグラダファミリアすごかったよ」と返すくらいにはみんな行ってるし、みんな知っている。

リアルとしてサグラダファミリアを体感している"みんな"がうらやましくて仕方がない。そして、建築学科なら行くべき「スペイン」という国に行っていないことの意味が強く自覚されたのだ。
正直に言うと、みんなが行っている場所にすら行っていない自分に焦りを覚えている。リアルとして得ていない自分が対等にサグラダファミリアを語ることはやっぱり非常に難しいし、この状況ではいつになれば行くことができるかもわからないことも焦りの要因だろう。

スタンプラリー旅行は、あくまでzoomであったようにリアリティのみの状態からリアルを得ることによって、リアリティを遠ざける作業かもしれない。しかし、旅行に行くとmapを見て、移動をし、目的以外の建物にも偶然出会う。するとそれはリアリティなしに突然と立ち現れるリアルなわけである。このリアルに目を向け始めた時にきっとスタンプラリー旅行から脱却できる。
幸運なことに、僕はリアルに目を向けるためのツールとしてカメラを持っている。この事実に自覚的になった今こそリアルを求めて、今度こそスペイン旅行に行きたいと思えている。

4.おわりに

書き終わってしまえば、なんてことはない話だった。素直に現地に行って、リアルを体感したい話に過ぎないのだけれども、回り道をして今の現状を深く把握しなおしたということにしよう。

建築スタンプラリーと揶揄されてきた建築だけを焦るようにして巡る学生の旅行。単に学生が焦りながら行く旅行全般を揶揄しがちなものであるが分解してもっと考えていったほうが良いだろう。
心のどこかでは引っ掛かっていながらも、ただ揶揄に乗っかっている自分がいた。勿論、建築を消費するような旅行という観点においては大いに議論されるべきではあるが、今は一概に否定できない。少しの後悔で僕はこのnoteを書き始めた。

一方で、纏めていくうちに収穫もあった。
写真というメディアの持つ「リアリティ」への訴求力は信じていいかもしれない。そしてそのリアリティを与えるためには、リアルそのものだけではなく「リアル'=リアル+想像力」なのだろう。
+想像力の部分は、根源的なリアルへの欲求でありそれを叶えるのがきっと技術なのだと思っている。

リアルからリアル'への作業はそもそも写真によって現実を切り取る段階から始まっている。それを更に自分なりに現像したりキャプションを付けたり組みなおしたりして、自分自身の想像力を高めている。

今のこの活動自粛期間はきっと「+想像力」の鍛錬の時期なのだろう。
前回のnoteでも書いたが、僕たちがコロナがもたらした様々な世界の変化からつかみ取ることができる可能性を信じてみたい。

アフターコロナの世界をめがけて。

エピローグ

そういえば、zoom飲みをしたいと研究室の後輩が言ったときに指導教官が「全員で同じフードを頼んで、部屋で同じものを食べられたらいいよね」と言ったという。

後輩は何を言っているのか意味が分からない、なぜせっかく別々の部屋なのに同じものを強制されるのだろう、と呟いていた。

しかし、このnoteを書き終えた後だとリアルな場がない中で共有するのは想像力だけではないのかもしれないなと気付かされる。

これはリアルとリアリティの概念の問題にものすごい近い気がしている。
あえて言語化はしない。考え続けたいと思う。


サポートいただけたら嬉しいです。のんびり写真を撮り続けています。