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過ぎ去る一瞬の風景に愛を。

こんにちは、hiloaki.kです。
今日は名前をつけていないテーマについて少しお話しします。共感していただけるかはわかりませんがポツポツと語るので、見ていただけたらなと思います。今回はエッセイ調です。

1.ナンバープレートの記憶

小学生くらいのころ、母によく車で送り迎えしてもらっていた。妹と一緒のことが多く、車中では往来する車のナンバープレートの番号で掛け算したり足し算したりして遊んでいた。ナンバープレートを確認できるのは一瞬で、よくよく目を凝らして追っ掛けていたものだった。
こちらが走っている最中に道路に止まっている車、対向車線を過ぎ去っていく車のナンバープレートを見逃すまいと、なぜかそわそわしていたし、緊張していた。うまく言葉にできないが、感情で言うと「焦り」に似たものだと思う。この一瞬しか見ることができない。決してもう二度と出会うことはない、名も無い車たち。

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中学に上がって、この遊びはやらなくなったが、近所を車で回る時は「好きな子が乗っているかも」なんて理由でやはり一人で往来する車を眺めていた。今度は中にいる人を認識するためにフロントガラスばかりのぞき込んでいた。結果として、好きな子を一度も見かけることはなかったけれども。

こんなことをしているうちに、物凄いスピードで過ぎ去る中でどれだけの物を追い抜かし、どれだけの人とすれ違っていくのだろうという疑問はむくむくと大きくなっていった。同時に、やはり「過ぎ去る一瞬の風景」を幼いながら怖く感じていた。

2.車窓から眺めて

時は少し飛んで、大学四年生の冬。僕は途方に暮れていた。
卒業制作のテーマが決まらない。建築学科では卒業制作というものがあって、大学四年間の集大成を作るように求められる。課題テーマから敷地、コンセプト、発注者、時代設定なにからなにまで自由にぽん、と放り出される。そして、教授陣から「今後一生取り組んでいくテーマを、ボールを遠くに投げられるテーマを設定しなさい」なんて脅されるのだ。

あまり優秀な学生ではなかったので、7月に卒業制作についての説明を受けた後11月に卒業論文が終わるまで何も手を付けられなかった。提出は2月の頭。12月にはせめてコンセプトや大まかな設計を終わらせていないとどう考えても集大成にできそうもない。

一生取り組むテーマなんて一カ月で決まってたまるか、と思いながら悶々と考えていた。なんとなくやりたいことは、風景の議論。当時風景写真を撮りたいなと思っていたのもあるし、印象的な写真構図と空間認識について…写真と建築の相似性とそれぞれの特異性を…なんて難しいことを考えたりもした。
まとまらないまま12月が終わろうとしていた。

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年末の帰省の時期、幼馴染や京都の親友を含む高校時代の同期と新幹線で札幌まで帰る計画が上がっていた。何かここからヒントを得られないだろうか、と思いとりあえず『新幹線札幌駅』でもやるかと仮定することにした。自分がやりたいことをB2判の紙に絵と文字で書き殴っていった。

写真の撮影と建築の設計を結びつける。
自分の地元、札幌の駅前で設計をしたい。
写真構図が建築のモニュメンタルな部分を補強できないか。
新幹線の過ぎ去る風景を駅舎にも入れ込んだような設計がしたい。
風景を切り取る作業が写真撮影とするならば、切り取られたものから風景を作り出す作業を新たな設計として考えられないか。

今の自分から考えれば相当無茶苦茶だし、何を言っているんだと思いながらも当時は必死に至極真剣に考えていた。まとまらないまま、新幹線に乗って北海道に帰る時が来た。

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帰省の新幹線上は、ずっと外の風景の変化を眺めて5時間座り続けた。
トンネルを抜ける度に変わっていく風景は、『雪国』よろしくふと気付くと白い世界で覆われていた。トンネルを抜ける前の景色はなかなか思い出すことができず、ただただどんどんと変化していく風景を眺めるしかなかった。そこには懐かしい、あの「過ぎ去る一瞬の風景」への焦りが伴われていた。

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どうにかして「過ぎ去る一瞬の風景」の連続である新幹線の体験が札幌駅での体験に、そして札幌観光の体験に結びつかないだろうか。とマジカルバナナのように考えていた。マジカルバナナ札幌駅、手法はまだない。

卒業制作について結論から言うと、まとまらないまま、敷地も間違ったまま、設計手法の説得力もないまま、この卒業設計は終わりを迎える。学内の賞に掠ることはなく、おしまい。学部時代の設計:完。なんとなく後味の悪いまま大学を卒業した。

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ただ、幼少期考えていた「過ぎ去る一瞬の風景」を思い出して、これが一生のテーマになるかも、なんて予感がしていた。

3.移動手段と風景

大学院に上がって、教授と直接話したり研究室のプロジェクトをしていくうちに「自転車と風景」を考えることが増えた。歩行者には普通の坂道でも、自転車に乗った瞬間に坂道は強く認識されて上るのを避ける。という話は印象的だった。『自転車というツールを媒介にして、人は都市を認識するし見えてくる風景もその速度によって異なる。』ということだった。

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なるほど確かに。自動車でも飛行機でも船でも言えるな。この話は、自分がずっと考えていた「過ぎ去る一瞬の風景」に近いものを感じるし、もっと拡張できないだろうか。と思いはじめた。

そこで、できるだけ飛行機に乗る時もバスに乗る時も船に乗る時も外の風景が見える場所を取ってカメラを構えることにした。「過ぎ去る一瞬の風景」の焦りから逃れるためには、その一瞬をカメラでおさえてしまえばいいと思ったからだった。

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#passby を思いついたのも移動のたびにカメラを構えるようになってからだ。このシリーズは、自分が歩いているときにすれ違う人の物語に思いを馳せるべくストリートスナップ調に撮っている。

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ただ、「過ぎ去る一瞬の風景」には名前を付けていない。というより、正式な名前を見つけるまでSNSのハッシュタグテーマを付けたくなくていろいろと呼び名を変えている。つい最近までは「刹那」とか「移動風景」とか呼んでたけどどうにもしっくりこない。「過ぎ去る一瞬の風景」もしっくりきてない。

それでいい、と思っている。今のところ、これが一生のテーマだから。

4.おわりに

この話には、少しだけ続きがある。つい最近の大学院修士での話だ。自転車から見る風景がどれだけ歩行者と違うのかを示したくて、修士論文でチャレンジしてみた。

結果、撃沈。自分のエモーショナルな部分を言語化するのに精一杯でエビデンスらしいエビデンスも、新しい発見もない。お情けで合格を貰った。

卒業のたびに訪れる大敗北(多くは自分の準備不足)が、このテーマを追っ掛けるきっかけになり、文章を書く練習としてnoteを始めるきっかけとなった。

一歩ずつ進んでいる、気がしている。

サポートいただけたら嬉しいです。のんびり写真を撮り続けています。