2/14 拳銃
昔から「拳銃」は映画や演劇なんかで広くファリック・シンボルとして使われることがあります。男性性や父性の象徴、ということですね。最近はもう下火かと思いきや、2019年にも『天気の子』で使われていました。主人公である帆高や、須賀が拳銃を撃つ(ことを助ける)ことで「父になる」という描写がされていましたね。古典的です。
昨日観た舞台でも「拳銃」はキーアイテムとなっていました。國學院大學演劇研究会の卒業公演『ただいま群青、さよなら、寂寞。』です。ここから「拳銃」を中心に、舞台の感想を書いてみたいと思います。
注意書き
これから書くのは曖昧な記憶を元に勝手に思ったことです。作者や演出・演者の意図を無視し、勝手に色々なことを読み取っています。また、以下の文章における「父性」や「女性性」といったものの取り扱い方は非常に古典的かつ時代遅れに見えるだろうと思います。しかしそれは、僕がこの文章に限っては、今作をそのような非常に古典的な枠組みでしか捉えていないというだけであり、作品そのものが古典的枠組みで作られているということを意味するわけではありません。
また、以下の文章には性暴力被害に関する描写が含まれるほか、前段にある通り現代的価値観にはそぐわない方法で書き進められています。フラッシュバックなどのリスクや、前提とするジェンダー意識や価値観に不快感を覚えることが予想される方の閲覧は推奨しません。ブラウザバックをお勧めします。
また、自分の観劇録的な意味合いで書く文章なので、特に未見の方への配慮はせずネタバレもしますし、あらすじも書きません。
では、始めます。
拳銃とはいかなるメタファーか
まず「父性の象徴としての拳銃」が、一般的に何を意味しているかということをあらためて説明します。端的にいえば、それは「父性には法外性が伴う」ということ、つまり「父性」なるものには、既存の秩序を脅かすような性質が内在しているということです。
「一人前の男(成熟した男性性としての「父」)になるには、秩序からの逸脱行為、つまり法外性を纏う行為をしなくてはいけない」と言い換えても良いでしょう。秩序からの逸脱行為というのは、拳銃においてはもちろん発砲を指します。映画や演劇に登場する拳銃には、そこに「拳銃を発砲(=法外性を纏う)することで、父(=成熟した男性性)となれる」という意味を読み込むことができるわけです。
たとえば、登場人物が銃を持って「撃てない……」と言っていたら「あ、まだ父になれないってことね」と解釈することができるし、撃てた暁には「なるほど、これで父になったんだな」と結論づける可能になるわけです。もちろん、必ずしもそのタイプの読みが有効とは言えませんが、しかし少なくとも今回はそうだといえると思います。
それを前提に、詳しく感想を書いていきます。
銃を撃てるか撃てないか
この物語の中心にいるのは「涼」と「野塚」です。彼らは対照的であり、最終的に衝突し、涼が野塚を射殺、涼だけが生き残ります。この「なぜ野塚ではなく涼が生き残ったのか?」を問うことで、今作における「父性(の象徴としての拳銃)」について考えることができるでしょう。野塚は「父として不適格だった」が故に死んだように、僕には思えるからです。つまり先ほどの問いはこうも言い換えられるでしょう。「なぜ野塚は父になれず(死に)、涼がだけが父になれたのか?」と。
まず、野塚と涼がどのように対照的か、ということを見ていきましょう。おそらく、まず浮かぶのは「拳銃を撃てるか、撃てないか」という違いです。涼は普通の生活をしてきた一般人であり、劇の中盤で銃を手にし、妻の仇である野塚を前にしても引き金を引くことができません。対して、野塚は長年裏社会を生き抜いてきた、銃で人を殺すことなどわけない男です。
と、こう書くとまるで野塚の方が「父」に近いように思えるかもしれません。先ほど書いた通り、拳銃を父性、男性性のメタファーと捉えた場合「発砲する(法外性を纏う)ことで、父(=成熟した男性性)となる」と考えられるわけですから。そして終盤、涼もまた銃を撃てる男になりますが、それでもやはりイーブンになっただけです。しかし実際のところ、ラストでは野塚が生き残るわけでも相撃ちでもなく、涼が生き残ります。それならば、野塚に比べて涼には何らかの優位性があると考えられるはずです。「父」として生き残り得るような優位性が。
野塚の決定的欠落
実は、涼は持っているのに野塚は持っていないものがあります。それは「女性と正常なコミュニケーションが取れるか否か」です。もちろん、これは目を合わせて話せるかとか、キョドらないとか、そういう話をしているわけではありません。もっと直裁に言えば、性的なコミュニケーションを正常に取れるか否か、です。
野塚は取れません。野塚は女性に対して、暴力という形でしか向き合えないことが劇中で何度も示されています。彼は(直接描写されているわけではないですが)組織が人質に取った女性に対して性的暴行を繰り返しているし、涼の妻である遥を殺した際にもそれは同じだったはずです。(確か、罪名として「婦女暴行」とチラッと言っていたはず。)
野塚は女性に相対したとき、暴力的な接触以外できないのです。彼が専務に対して苦手意識を持っているのも、立場上、暴力的なアプローチが不可能だからではないでしょうか。それは、野塚からすれば関わりを拒絶され、遮断されたも同じだからです。野塚と涼の決定的な差異はそこにあります。二人は同じ遥という女性に対して性的なコミュニケーションを取りますが、野塚は暴行という形でしかそれを行えず(しかも殺してしまう)、一方で涼は彼女と正常な性的コミュニケーションをとり、家庭まで持つことになります。「拳銃を撃てる」ことで涼に比べてより「父」に近かったように思われた野塚は「父」として、このように決定的な欠落を抱えているのです。
では、ここで一旦整理しましょう。涼は「銃を撃てない」が「女性に対して正常な接触が可能」です。そして野塚は「銃を撃てる」が「女性に対して正常な接触が不可能」。どちらも「父」になるのに必要な要素を一つ持ち、一つ欠落させている一勝一敗的なこの関係性が、物語の中盤まで二人の間に均衡をつくり決着を保留しています。そして終盤、涼が「銃を撃てる」ようになることでこの均衡は崩壊し、涼のみが生き残ることができる、というわけです。
「責任を取る」ということ
ところで、ここまでは涼と野塚の対照的な側面を書いてきました。なので、ここからは共通点を書こうと思います。それは、二人とも「責任を取らない」ということです。涼の方がわかりやすく描かれていますね。彼は作中、何人かの登場人物に「逃げるな!」という趣旨の責められかたをします。要するに「妻である遥が殺された13年前の事件に向き合う」ことから逃げるな、ということですね。涼には事件に向き合う責任があり、涼はそこから「逃げるな!」と言われているわけです。「責任」というのは「なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの」なので。
では、野塚の方はどうでしょう。彼は死に際に「今まで好き勝手やってきた」という評されかたをします。まぁ、これはわかりやすいですね。野塚は上で書いた通り、元から「銃を撃てる=法外性を纏う」男です。そして彼は、その法外性で「好き勝手」やってきたのでしょう。そして、毎度毎度自分のしたことの責任をきちんと取っている人間であれば「好き勝手」などとは言われないはずです。そもそも、彼が13年前に起こした遥の殺害ですら、一人で責任を取るのではなく、結果的に組織に尻拭いをさせている。彼が「責任を取らない」人間であることは明白です。ヤクザなんて全員法外だろうと言われれば、それはそうなのですが。
ここからわかるのは、今作では、単に「拳銃」というメタファーが「発砲する(法外性を纏う)ことで、父(=成熟した男性性)になれる」ということを意味しないということでしょう。法外性を単に纏うだけでは、その先に待っているのは破滅であり、決して父にはなれないということが野塚の末路をもって示されています。
一方、涼は自らの法外性に責任を取り、罪を償う決断をします。法外性、すなわち「拳銃を撃った」ことへの責任です。もしこの物語における「拳銃」が、撃つだけで父になれるという単純なメタファーであれば、彼は刑務所に入らず、「父」として娘とすぐさま人生をやり直すという展開にできたかもしれません。しかし、この物語はそうはなっていない。男性性の成熟のゴール、「父」になるには、責任を取る主体でなくてはならないのです。それゆえ、涼はラストシーンでは刑務所勤めを終え、責任を取りきって──つまり名実ともに「父」になって初めて、娘と再会することができます。
「法外性の結果に責任を取る」──それこそが涼に出来て野塚にできなかったことであり、涼だけが父になれたことの理由ではないでしょうか。拳銃を撃ったなら、撃った結果の責任を取らなければならないのです。撃ちっぱなしでは決して父になれない。単に法外性を纏うことで暴力的・支配的な力を得るだけではダメで、その結果に責任を取ることができて初めて成熟した男性性を獲得できる。また、「力を制御する」ではなく「力の責任を取る」ことがゴールとされている点に、ある種リアリスティックな諦念を感じます。そんなのは甘えだと批判されるかもしれませんが。
今作における「父性の象徴としての拳銃」は「発砲する(法外性を纏う)ことで、父(=成熟した男性性)になれる」という古典的なものではなく「発砲し(法外性を纏う)、その結果に責任を持つことで初めて父(=成熟した男性)になれる」を意味していたのだ……と、こんな風なことを、『ただいま群青、さよなら、寂寞。』を観て思いました。もちろん、そんなこと全然考えていなかったかもしれないし、検討違いかもしれませんが。ただ、演劇とか映画を観る楽しさとして、好き勝手な感想を考えたり書いたりすることもそのうちの一つだと思うので、別に良いんじゃないかなと思います。また、次の公演も観たいです。
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