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2/1 佐々木チワワ『「ぴえん」という病』

非現実な街で死ねば、死にざまだけでも「エモい」ものとして最後に消費してもらえるからだ。(P71)

1月最後に読んだ本になった。その1冊が自分と同い年(21歳)の書き手によるものだというのは、なんとなく感慨深い。宇佐美りんですら一つ上だったのに……。

まぁ、それはともかく。

ともかくと言ったのに書き手の話を続けると、佐々木チワワは15歳の頃から歌舞伎町に通い続ける現役慶應SFC生で、専攻は社会学らしい。確かに見田宗介や宮台真司から中村香住、田中東子らの名前が引かれていて、それを見るたびに「お〜同世代の社会学の人だ〜」という感じがした。

そんな著者が自らの実践と理論を基に書いた本なのだけど、ジャンル的にはルポルタージュというのが一番適切なんだろうかと思う。文体も平易で読みやすかったが、ちょくちょく誤植があったのだけは残念だった。たぶんそのうち直るだろう。今めっちゃ売れてるらしいし、何刷り目かではどうにかなってるはずだ!

量産型と地雷系

現代ファッションに詳しくない自分としては、第一章で「量産型/地雷系」の違いについてわかりやすく解説されていたのが良かった。特に、量産型に関するくだりは自分の今までの疑問を解決してくれるものがあった。

というのも僕は以前から「量産型」って量産型感がない(派手に見える)よな……と思っていて。同様の疑問を持っていた人は他にもいるんじゃないだろうか。で、著者曰く「量産型」ファッションは「お人形的スタイル」と形容できるものなのだそうだ。なるほど、客観的なビジュアル性を追求し、人形のように無個性で均質化された外見を目指すスタイルということなのだろう。人形の顔は美形だが、個性はない。「量産型」という大量生産・大量消費的な響きにぴったりで、読み進めながら最初になるほどと思ったのはこの箇所だった。ちなみに、地雷系には他にも「ヘッドドレスにサングラス、ジャージにルーズソックス」というようなスタイルもあるらしい。もうよくわからん!

ファッション

 上の内容もそうだが、この本で扱われる「ぴえん系」を語る上では「ファッション」が欠かせない。というのは、決して服とかメイクとかそういうことだけではない。たとえば、「ぴえん系」文化圏では高岡由香(ホスト殺人未遂事件の犯人)を神格化し、彼女の犯行動機をハッシュタグにしたり(「#好きで好きで仕方なかった」)、アクセサリーやタトゥーのような感覚でリストカットを行ったりする。自傷行為や自殺といったものを軽やかにファッション感覚で消費していくのだ。「ぴえん系」の大きな特徴として「全てをファッションに回収する」ということがあるんだろう。また、「トー横界隈」を取り上げた2章でも「ドンペンコーデ」(ドン・キホーテのあのペンギンが描かれたファッションスタイル)について触れられていたりする。「トー横界隈」とは歌舞伎町の新宿TOHOビルの辺りにたむろする若者たちで形成された界隈で、ここ数年でたびたび話題になった。詳細な説明は省くので、以下の記事を見て欲しい。

そういえば、「裏原系」「アキバ系」「渋谷系」というように、これまで若者文化・現象は地名を冠して語られてきた。しかし、「ぴえん系」はトー横や歌舞伎町といった土地に根差した文化のように見えるにも関わらず、「トー横系」「カブキ系」とは呼ばれない。なぜだろうか?

都市空間

 この本では「歌舞伎町」とか「トー横」で展開される文化が語られる。そう聞くとてっきり「なるほど、その文化は特定の場に根差しているのかな」と思うかもしれないが、読むと「文化を土地に強く結びつけて考えるべきではない」と思わされる。著者はここまで書いているわけではないが、おそらく「歌舞伎町」や「トー横」といった地名を意識しすぎると、現象の本質が見えなくなるということを意識した方が良いのではないだろうか。
 第2章に「トー横界隈と同様の場が関西にもできている」という話があるがその通りで、SNSを通じて文化が発信され共有されることで、全国どこであろうと容易に同じ界隈が誕生するのだ。(本で紹介されていたのは大阪のグリ下界隈・名古屋のドン横界隈だったが、聞いたところによると徳島にもポッ街界隈というのがあるらしい。)
 ある特定の文化や現象が特定の場所で起きているように見えても、リアルはあくまで二次的なものであり、一次的な実体はSNSにあるということだ。また、この事は「トー横の治安が悪いからトー横への規制を強化する」というような措置が如何に無意味かということを示してもいるだろう。(治安悪化に伴い、2021年の夏からトー横には厳しい規制が入っている。)
 そしてその二次的なリアル空間と一次的なSNS空間を媒介するのが「ぴえん」なのだ。文化の発信地が今やSNSに移ったことで、文化が「アキバ系」「裏原系」「シブヤ系」のように地名で呼ばれることはなくなり、「ぴえん系」「ウェイ系」「卍系」と、当事者の使う言葉が文化そのものを名指すように変わっていったんじゃないか。なぜなら、それだけが二つの異なる空間を繋ぐ唯一のツールだからだ。

推し

 4章、5章では主にホストクラブを取り上げて「推し活」についても色々書いている。この辺りは説明的な描写が多く、少し読み飛ばしてしまったところもあるのだが、やっぱり面白くはあった。「「推し」の対象が一般人にも及ぶ」という話があったが、この辺りは土井隆義を踏まえているのかもしれない。(「現代アイドルの消費態度における「追っかけ」から「推し」への変化は、ファンとスターの並列化を意味する」という話)。アイドルの話が出てきたが、同じ「推し」という言葉を使うにしても、この本で取り上げられるようなホストクラブなどとアイドルの現場では「推し」の在り方が違う部分があるなと思った。
 前者も後者も「○○推し」という文化、つまり「推す-推される」という1対1の関係性消費は存在するのだが、前者には「箱推し」や「DD」というような1対多の関係性消費がないように見えるからだ。つまり、ホストクラブの客がホスト同士の関係性を消費する、という文化はないようなのである。この本の主題から外れるためあえて書かなかったという可能性はあるが……。もしそうでなければ、この辺りは考えながらまた読むと面白いのではないかなと思っている。どうでもいいが、僕はアイドルが好きで且つ「推しカプ」はあれど「推しメン」はいなかったりする。ホストクラブに「推しカプ」はないんじゃなかろうか?

結局「ぴえん世代」ってなんなのか

ぴえん世代=「SNSが当たり前にあって、何かを発言したり「好きなもの」を発信して生きているなかで、自己肯定感や自分の価値観とかが数字に依存し、自意識が煩雑になっている若者がどのコミュニティにも一定数存在する現状を生きる世代」だ。

昔は「クラスで一番かわいい」「クラスで一番絵がうまい」などの狭いコミュニティでの評価だったものが、今ではネットで簡単に自分より優れている同年代にアクセスできてしまう。
 だからこそ常に「自分しかないもの」を探しているけれど、それもなかなか難しい。そんな社会で自分の存在価値を確かめるには、やっぱり数字で評価されたり、お金を使ってでも誰かに必要とされる場所が必要だし、推されることで自分の価値を確かめるという側面もあるのだろう。(P159-160)

社会からの承認を実感するのが困難になったため、それを諦めて代わりに特定個人からの承認を求めることで充足しようとする、ということだろうか。もちろん、それは現代特有の現象ではないが、SNSによってその若年化が進んでいるのだろう。自分が「井の中の蛙」であったことを知る年齢が早くなっているのだ。「Z世代」がデジタルネイティブ(物心がつく頃にはインターネットやパソコンなどが普及していた環境で育ったこと)を肯定的に捉えたものだとすれば、「ぴえん系」は反対に、目を逸らしたくとも否応なしに立ち上がってくるデジタルネイティブの負の側面を思い出させてくれる気がする。


最後に文句

終盤に、ぴえん世代は時間に追われて余暇がないせいで「なにに触れてもエモいとかぴえんとで済ませてしまい、感情の詳細な言語化をサボりがち」みたいなことが書かれている。が、これには違和感があった。時折りこういった若者批判はよく見るが、別にそれの何が問題なのかと思う。本の感想にこんなことを書くのも変だが「言語化」とか「思考」とかをやたら有難がるのはどうかと常々思っている。

文句を言ってしまったので宣伝します。面白かったので是非買って読んでください。↴

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