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2/2 受験と國學院と哲学科

今日はうちの大学(國學院大學)で入試が行われていた。もう高校を卒業してから3年経つので、直接知っていた後輩なんかも大体が大学受験を終わらせてしまい、知っている受験生なんてほとんどいなくなってしまった。高校の同級生で三浪生がいるくらいだ。彼のことはかなり心配している。卒業と同時に音信普通になってしまったMくんのことも、かなり心配している。

そういえば、知っている高校生が「ニッコマは嫌だ」と言っていたのを思い出す。日東駒専のことを「ニッコマ」と呼ぶのは、学歴厨の第一歩だから、やめよう……!

学歴厨といえば、去年の12月にこんなことがあった。

このマイナビ「大東亜」騒動というのはなんなのか。ついでだし上の記事からそのまま持ってこよう。

12月初旬、インターネット上で突如「学歴フィルター」が話題になった。

発端は、12月6日にSNSへ投稿された、就職活動中の大学生による情報からだ。投稿には、就職支援サービス「マイナビ」の運営事務局からユーザーの学生に送信されたインターンシップ募集メールの画像があり、メールの件名には「大東亜以下」と記載されていたのだ。SNS上では同様のメールを受信した複数のユーザーも名乗り出ており、「学歴フィルターで振り分けられているのでは」「内部情報漏えい事故では」と物議を醸すこととなった。

マイナビが学生を学歴フィルターにかけていたらしい。それは大変なことだ。

しかし、もっと驚いたことがあった。この記事で言及されている「大東亜帝国」について、國學院の学生たちがポツポツ反感を露わにしていたのである。大東亜帝国、というのはMARCHや日東駒専といった大学群の一つである。これの何が問題だったのだろう。

なるほど。

再び上の記事から引用しよう。

「学歴フィルター」とはご存じの通り、一定水準の偏差値未満の大学出身者を採用選考から除外する意図で行われる非公式な選考手段だ。今般のメールにあった「大東亜以下」とはすなわち、「大東亜帝国」(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学または國學院大學)と称される大学群と、それらより偏差値レベルで下回る大学に所属する学生母集団を指すものと考えられる。

これに半ばガチでキレている國學院生が結構いて、僕はビビってしまった。上に引用したツイートなんて比ではなく、マジでキレている人もいたのだ。しかし、「成成明学獨國武」なんていう訳の分からない大学群より「大東亜帝国」の方が良くないか?と思ってしまう。Wikipediaにも「または(國)國學院大學 -」って書いてあるし。

スクリーンショット (113)

だって「成成明学獨國武」って、なんなんだ。覚えにくいし、中途半端だし……そんな意味不明なところに分類されるなら、むしろ國學院は大東亜帝国だ!と主張した方が良いし、事実自分はもし「國學院ってMARCHとかああいうので言うとどこ?」と言われたら大東亜帝国と答えようと思う。そっちの方が良くないか?

というも、早慶やMARCHといった難関校になっていくにつれ、いわゆる「インテリ」になっていくわけだけど、個人的に、國學院にはそことは真逆の立場を取って欲しいのだ。非インテリ・非グローバル・非アップデートみたいな感じで行って欲しい。大学の特色とか、成り立ち的にも……まぁ、どっちでも良いっちゃ良いんだけど……。

ところで、僕はそんな大学の哲学科に3年いるわけだけど、なんとなく哲学科にいるタイプの人はあまり得意ではないかもな、と思っている。哲学科にいるタイプの人~といっても色々いるからひとくくりには出来ないけど……なんだろう、僕が今想定しているタイプの人たちは「理性」や「思索」や「知識」ついでに「個性」とか「自由」とか「表現」といったものを特別視していて、逆にそれを重んじない側の人間を軽んじている。そして、哲学科はそのタイプが他の学科に比べて多い、気がするのだ。僕はそういうのには乗れないな~と、思う。

あと、基本的に哲学科とそこまで関係があるわけではないが、(そんなに関係なくもないけど)、上のようなタイプはリベラルな人が多く、「相手が自分と違う立場を取るのは、きちんとした知識を学んでいなかったり、真面目に考えていないからだ」と思っている人が多い気がしている。つまりそれは「真面目に考えたりきちんと知識を得て勉強すれば自分と同じ立場になるはずだ」と考えているわけで、端から相手を「啓蒙」してやろうと思って議論や対話を始めようとしているということだ。それは対話なのか?とも思ったりもする。

ここまで色々と言ってしまったが、なんで自分がこんな感じかといえば、(前にも書いた気がするが)僕はこれまで成績が良い生徒だったり、試験で良い結果を残したことがなかったりして(大学も高校も推薦で入っているし)、ネットでたまに見る表現を使うと「大人しいのにヤンキーより成績悪いやつ」だったというところにも理由がある。哲学科の人と合わないと上で書いたが、単純に「ヤバイ……楽して推薦とか使ったせいで身の丈に合わない大学の身の丈に合わない学科に入ってしまった………」と思っているのもある。受験は真面目にやった方が良い……!

実際、僕はいわゆる哲学書の類が全然読めない。難しくてよくわからないのだ。そのせいでゼミでも落ちこぼれてしまった。

しかし、なぜこんなに哲学書というのは難しいんだろうか。もちろん前提知識を必要とするから難しい!というタイプの哲学書もあるだろうが、おそらく哲学……というか人文学全般の役割が「まだ存在しない言葉や、語りがたい言葉を語ること」にあるからだ、という風に僕は理解している。そして、それは同時に「弱者の側に立つ」ことでもある。弱者の弱者たるゆえんは、自らを語る言葉を持たず、自らについて訴えることが出来ないことに一因があるからだ。

 だからこそ人文科学の言葉はわかりにくいと言われ、何の役に立つのか、と問われる。しかし「わかりやすい言葉」とは「すでにわかっている言葉」とイコールであり、その「わかりやすさ」は本質的に強者の言葉によって規定されている。そこから外れた「わかりにくい言葉」を扱うことに、哲学・人文科学の社会における必要性があるんだろう、と思う。

だからこそ、「哲学とかいうの、よくわかんないからもっとわかりやすくしてくれ」という要求には安易に乗るべきでは無い。もちろん多少わかりやすくするとかなら良いと思うのだが、少なくとも全面的に受け入れるべきでは無いんだろう。まぁ、こんなことがわかったとて僕が哲学書を読めるようになるわけではないし、全ての哲学書にはもっとわかりやすくなって欲しい……。




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