11/29 生活圏の知人と観光地の現地人

オードリー若林の書いた『表参道のセレブ犬とカヴァーニャ要塞の野良犬』という本を読んだ。若林によるキューバ、モンゴル、アイスランドへの観光記で、どれもそこにいた人達の話が書いてあったから、この人、本当は人が好きなんだな、と思った。

そう書くと、僕が「人見知りで世間の人間関係に鬱々としているイメージの若林さえなんだかんだ人との交流や温かみを求めているんだな」と、人間関係を肯定的に書いているように思うかもしれないが、別にそういうわけではない。単に「若林は世間的なイメージよりは人が好きなんだな」と思っただけだ。多分世間の大多数よりは人が嫌いだろうと思う。普通に。

自分はどうか、と言われたらよくわからないが、まぁすごく好きでもすごく嫌いでもないと思う。ただ、「特別だったり、唯一無二であったり、理解し合った」深い関係性が、そうでない浅い関係性よりも持ち上げられるのは、好きではない。

これは、物語に顕著だと思う。だいたい物語の中心にいるのは、親友や、恋人や、そうでなくてもお互いを理解しあっていたり、バッググラウンドに通ずるものがあったり、お互いがお互いである必然性があるように見える、そういう人間関係を築いている人間だ。一見浅い関係性のように見える……たとえば「一度会っただけの関係」なんかも「一度会っただけ(だからこそ刹那的で、二度と繰り返さないが故に特別な)関係」という風に妙な箔がつけられる。物語の中心にいるのは、そういう人たちだ。物語のキャラクター相関図を書いた時、「まぁ、これはこいつである必要はないんだけどな……」となるキャラクターはあまりいないだろう。

現実でも、そういうことはある。自分を中心とした相関図を作ったとき、その図のどこにいる人も他の誰かと交換不可能な「この人しかいない」となるような人間関係を作ることが良いこととされている気がする。そして、その交換不可能性が高まれば高まるほどそれは「深い関係性」となり「良いもの」とされている気がする。そして、それは窮屈だ、と僕は思う。いったい、「深い関係性」のどこが「浅い関係性」よりも良いものなのだろうか。

そして、その根拠不明な理屈のせいで「浅い関係性」を築いている人たちは「深い関係性」を築くのに向いていない、築く努力をしていない人たちだと見做され、同時に本人たちもそう思わされているような気がする。でも、そんなことは無いはずなのだ。そもそも「深い関係性>浅い関係性」なんてものに根拠がないのだから。社会には浅い関係性を必死に生きている人たちがたくさんいて、それは別に彼等が深い関係性を築けなかったからでも、築くのに向いていないからでもない。

こないだ、僕は自分の同人誌で変なものを書いた。Aさん、Bさんという架空の二人組が行う対談に同席した自分がインタビューをするという体の、よくわからない原稿だ。脳内での会話をPCに出力しながら、時折第三者目線でツッコミを入れながら書いた。そのAさんBさんという人は30代のおじさんで、二人とも高校時代の、さほど親しくもない相手とのエピソードを語るというキャラクターだった。彼らは別段、特別熱意をもって語るわけではない。きわめて浅い関係性を、ヘラヘラ喋る。

Twitterで同人誌の感想が回ってきて、その原稿に関して「冒頭にどこまでも果てしなく虚無的なインタビューが載っている」と書かれていた。「大変良かった」とも。おそらくこう書いてくれた人はあれが本当に行ったインタビューだと思っているのだろうけど、この感想はとても嬉しかったと同時に、自分の書きたいものの一つを再確認した、気がした。どこまでも果てしなく虚無的で、内面も築く関係性も浅い。そういう人についてなら僕は書きたいし、それが刺さる人もいるんだなぁと思った。

本の話に戻る。若林もやっぱり、ずっと浅い関係性を肯定している人のような気がする。たとえば、今回読んだ観光記もそうだ。そもそも、観光は浅い関係性の集合のようなものだ。観光客と現地人という、限りなく浅い関係性の両者がいて、観光はできているわけだし。でも、そういう浅い関係性は日常生活でもっと肯定されても良いと思う。ツアーの同行客や、ガイド、あるいは歓迎してるのかしてないのかよくわからない現地の人のような距離感で、生活圏の知人と関わっても良いはずだ。流石に、浅すぎるだろうか。




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