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チェーホフの「三年」を読む。不条理と諦観。

チェーホフはドストエフスキーと並ぶロシア文学の偉才だ。日本では白樺派の影響からか、トルストイの方が人気が高いようだが、トルストイは私にはつまらない作家だ。

チェーホフは学生時代から今に至るまで親しんできたつもりだったが、最近になり長編小説「三年」を初めて読んだ。
全くうっかりしていた。彼の主だった作品は戯曲、小説共に頭の中に入っているつもりでいたが、チェーホフがこんなにも力を入れて書き上げた作品の存在を最近まで知らなかったとは。

岩波文庫、新潮文庫ともに収録されていないので一般的にはほとんど知られていないのだろうが、カミュに通じる不条理の世界観が静かな筆致で描かれている様子が胸を打つ、チェーホフならではの佳作だ。

「どんな哲学も、僕と死を妥協させることはできないよ。僕は死を単なる滅亡と見るからな。生きていたいもの。」
「君は人生を愛してるのかい、ガヴリールイチ?」
「うん、愛してるよ」
主人公とその友人との会話は、「異邦人」のムルソーが表出する人生への愛と諦観を思い出させる。

彼らの対話は続く。
「僕は別に、何か特別なものになりたいとも思わないし、偉大なものを創りだそうという気もないけど、ただ、生きつづけて、夢を見、希望をもち、どんなところにでも遅れをとらずに駈けつけたいだけなんだ……人生は短いんだもの、よりよい生き方をしなけりゃいけないよ。」
ここでは意外にも、詩人であり科学者でもあった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を想起する。
人生の重圧に苦しみながらも、社会奉仕活動に勤しみながら創作活動を続けた様も似ているのは偶然か。

そして物語の終盤、主人公は表白する。
「彼にしても、黒犬にしても、この屋敷から逃れ去るのを妨げているのは、明らかに同じものなのだーーつまり、奴隷の状態や、東縛などに対する慣れであった、、、。」
人生の不条理、重圧に対処する術が最後に述べられるが、その真理は極めて単純だった。
それは「慣れ」であり、その慣れにより不条理を受容し、かつ受け流すという事だ。


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