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身を屈して、分を守り、天の時を待つ


      劉備玄徳


 劉備(161年 - 223年)は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した軍閥であり、後に蜀漢の初代皇帝となりました。


 彼は漢室の末裔であり、劉邦の直系の子孫とされています。しかし、劉備が登場する頃の漢王朝はすでに衰退しており、地方の軍閥が台頭して混乱が続く時代でした。

 劉備は、もともと名もない地方の一豪族に過ぎず、彼が力をつけるまでには多くの困難がありました。彼の生涯の中で特に重要な転機は、以下のような出来事がありました。

  劉備は「黄巾の乱」で義勇軍を組織して参加し、名を上げました。しかし、戦乱の中で一貫した支援基盤を持たなかったため、劉備は幾度も挫折と再起を繰り返します。

 
 曹操が強大な勢力を築く中で、劉備は一時期彼に仕えることもありましたが、最終的には対立し、独立した勢力を目指すことになります。

  劉備が荊州を手に入れたのは208年のことで、これが大きな転機となりました。この地域を基盤にして、彼はさらに勢力を拡大し、後に蜀を建国します。

 身を屈して(身を低くして)の言葉には、劉備が自己の地位や名誉にこだわらず、謙虚に他者と接し、困難な状況でも自らを低くすることを意味します。

 彼の生涯を通じて、しばしば他の強力な勢力に仕えたり、一時的にその下に身を置いたりすることがありました。


 例えば、曹操のもとに身を寄せたり、孫権と同盟を結んだりしたことです。これらは全て、彼がその時の状況に応じて柔軟に対応し、無理に自分を高く見せようとしなかったことを示しています。

 分を守り(自分の分を守り)とは、劉備が自分の限界を理解し、無理をせずにその範囲内で行動することの重要性を説いています。

 彼は決して無謀な行動をとらず、常に冷静に自己の状況を見極めて行動しました。例えば、荊州を手に入れた後、彼はその地域をしっかりと守り、そこを基盤として勢力を拡大していきました。

 そして天の時を待ちました。劉備は、成功を急がず、適切な機会が訪れるまで忍耐強く待つことの重要性を強調しました。歴史的に見ても、劉備は多くの逆境に直面しながらも、絶えず機会をうかがい続けました。

 最終的には、曹操の勢力が一時的に弱まった時や、孫権との同盟を結んだタイミングなど、彼はその機会を的確に捉えて行動しています。

 「身を屈して、分を守り、天の時を待つ」という言葉には、彼の人生と戦略の本質を表われています。彼は謙虚でありながら、自己の能力と限界を理解し、絶えず機会を待ちながら行動してきました。

 この哲学は、彼が最終的に蜀の皇帝として成功を収める一助となったのです。劉備の言葉は、現代においてもリーダーシップや戦略の重要な教訓として価値があります。

#三国志 #劉備玄徳 #曹操

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