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スポーツと女性差別とルッキズム

フェミニズムも勉強しなきゃ。そんなnote。

『日常の中で起こる様々な不正義対して、「やめてほしい」「こっちは冗談じゃない」などのことをその場で発言し、社会通念へのノイズになろう』という心構えを持っている知り合いから誘われた、『男のためのオンラインフェミ交流会』に参加した。そんなnote。

グラレコの練習もしてみた。

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テーマは「スポーツにおける女性差別とルッキズム」
まずは、元々スポーツが専門だった主催者の人から、こんな共有があった。

「途上国におけるスポーツ」
「プロスポーツの収入源と市場規模」
「スポーツにおける男女差別とルッキズム」
そして現在のプロスポーツにおける課題として「いき過ぎた商業主義」があるのではないか

そして参加者も含めてディスカッションがあった。

「プロスポーツが変われば、女の子の夢が変化するかも?」
「スポーツ自体が男性優位なのではないか」
「共産主義国でのプロスポーツってどんな感じ?」
「スポーツ選手って“労働者”なの?」
「娯楽としてのスポーツにおいて、資本主義的なお金の流れを変えるには限界がある?」
「プロスポーツの商業主義化と女性差別・ルッキズムは強く関連しつつも別の問題?」
「資本家階級・資本の論理からすれば、市民が熱狂できるプロスポーツが投機対象となるのは必然であった」

なかなかに刺激的。
交流会のテーマの一つとして、資本論とか科学的社会主義的な視点もあった。

(唯物史観的に)途上国では、スポーツは「体を動かすことは楽しい」とか「シュートを決めるのが気持ちい」とかが多い。けど、勝敗を決める、という発想や意識は薄いらしい。それに対して日本を含めて先進国では、スポーツは資本(家階級)による資本の自己増殖の過程に絡めとられているという。現代のプロスポーツは、スポーツの本質的な楽しさからは遠い場所に行ってしまっているのではないか。カイヨワによる遊びの類型からも分かるとおり、スポーツ自体は人間が欲するモノの一つかもしれない。けど、その欲求が、資本にとって都合の良い『投機対象』になってしまっているのではないか。資本が「放映権」という“囲い込み”によって、市民の「熱狂」からお金を巻き上げて、資本の自己増殖の運動の一つになってしまっているのではないか。そうした商業主義に陥ったプロスポーツの中で、女性差別・ルッキズムも蔓延り、女性選手の経済的・性的搾取が構造化されてしまっているのではないか。女性が容姿などを売り物にされ、本来的なスポーツの技能では評価されず、視聴率が取れるかどうかが評価されているのではないか。

こうした現状、構造を放っておいていいのか、というのが、今回の「ノイズ」なのかなって思った。
そして将来、(プロ)スポーツが資本の論理から解放されたとき、個人の技能のみに焦点が当たり、市民は真にスポーツを楽しむことができるようになるのではないか。また、経済的構造や資本による圧力から解放されるスポーツでは、今以上に個人の能力が開花され、今まで以上に熱いスポーツが展開されるのではないか。
みたいな?

フェミニズムで「ノイズ」っていうと、2年前の東京大学入学式での上野千鶴子の式辞が思い浮かぶ。
そこでの論点は、主に二つって言われてる。
・社会には依然として女性差別が存在すること
・東大に入学できたのは環境のおかげであること
この式辞自体が「ノイズ」であったように、様々な批判もあった。
そして学生からの意見に対して上野さんは、「自己利益を追求してはいけないとは言わない。ただ、恵まれた環境の人には余力がある。君たちは同一性の高い集団しか知らないと思うけれど、世間には、頑張ることができない環境にある人がたくさんいる」と言ってる。

構造主義で言われてるように「人間は何かしらの社会構造に支配されており、個人は自由な発想や行動を行っているわけではない」からこそ、その社会構造は丹念に分析する必要があるのかなって思う。その営みが既得権益者にとってノイズなのであれば、そのノイズはどんどん出すべきなんだと思う。きっとそのノイズは、今の日本に足りていないと言われる「トリプルシンキング」なんじゃないかなって思う。

「社会構造を丹念に分析する」ということで言えば、フェミニズムはその定義—「女という概念を自然化せずに前景化して、思考の俎上にのせる」からも分かるとおり、「女性は料理や裁縫が得意」とか「女性は家庭に入るべき」とか、そういうのは社会が構造的に作り出して来たものであり、それらが個人の中に内在化されて来ただけであって、消して「自然な」ことなのではない。思考の俎上にのせるべきであり、丹念に分析しなきゃいけないことなのかなって思う。

上野千鶴子は、マルクス主義フェミニズムという立場であるように、女性が『構造的』に搾取されてきているということを日本で先駆的に取り組んできた人。
『解放の思想は解放の理論を必要とする』で始まる「家父長制と資本制」もちゃんと読みたい。「Collected Works of Chizuko Ueno」って書いてあるとおり、なかなかに重厚な内容で、本腰入れなきゃなかなか読めない。

でも、
学問でもスポーツでも、社会構造によって選択肢が狭められたら主体性もクソもない。女性がスポーツの技能ではなく見た目だけで評価されていたり、医学部の入試で男だけが下駄を履かされていたら、女性にとっての主体性なんてわかんない。社会に蔓延る不正義があったら、個人の主体性なんて発揮できない。

シュタイセイのためにも、社会の構造から意識的に解放されていきたい、そんなことを思ったnoteでした。

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