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ピラミッドと創作讃歌【君たちはどう生きるか 感想】

カプローニは尋ねた。
「ピラミッドのある世界とない世界、どちらが好きかね?」
前作『風立ちぬ』の主人公・二郎は答える。
「僕は、美しい飛行機を作りたいと思っています」

そして二郎の物語の最後、彼の設計した最も美しい飛行機――零戦は、多くの若者たちを乗せ、狂気さながらに戦火に飛び込み、そして日本は一度滅んだ。

カプローニの問いにも注目してみよう。

「ピラミッド」とは、墓である。

かつてたったひとりの王の永遠を願うために、数万の奴隷が日夜働いて石を運んだ。最中に命を落としたものも少なくない。そして王と奴隷の支配関係も、まさしくピラミッドに例えられる。
それでもこの世界一美しい墓は、今日も世界中の人々の関心を集め続けている……。

「美しい飛行機を作ること」とはすなわち、多くのものを犠牲としながら、死の大釜である墓を建設することなのだ。

果たしてその先に利は、存在したのだろうか?


創造的であることとは、暴力を選び続けることである。

宮崎駿は『風立ちぬ』を通してそう言い残し、彼の引退宣言の1年後、スタジオジブリの制作部門は解体された。


彼は風立ちぬ以前にも、物語創作の功罪を飛行機に重ねていた。
そのひとつが、サン・テグジュペリ『人間の土地』(新潮文庫版)の巻末解説文である『空のいけにえ』だ。

――自分の職業は、アニメーションの映画作りだが、冒険活劇を作るために四苦八苦して悪人を作り、そいつを倒してカタルシスを得なければならないとしたら最低の職業と言わざるを得ない。それなのに、困ったことに、自分は冒険活劇が好きだと来ている……。



さて、ようやく新作『君たちはどう生きるか』の話に移ることができる。
まだ公開数日で資料なども発売されていないため、台詞やシーンがかなり曖昧であることについてはご承知願いたい。

物語の後半、
石の塔の主は、主人公である眞人に問うた。

――自分はもう歳だ。自分に代わってつみきを重ね、君自身の世界を作ってくれないか。

しかし眞人は首を振る。

――それは「木」ではない。墓と同じ「石」ではないか。
――ああそうだ。けれどこれは、人の悪意に触れていない石だ。

眞人は頭の傷に触れる。

――この傷は、僕自身がつけたものです。

物語の前半、眞人はずっと生命を拒否していた。
夏子の胎動におののき、生命力あふれる屋敷婆たちを忌避し、そして同級生との交流を拒否するため、眞人自身がこの傷をつけた。
そんな「悪意」を抱えた自分では、平和な世界を構築するための仕事を負うことは、できないと。

そしてその美しい「つみき」はインコ大王の手によって、願いのひとつもないままデタラメに積み重ねられ、揺らぎ、崩れ、そして彼の剣によって、永遠に失われることとなった。

……いや、本当に失われたのだろうか?

最後、眞人とヒミは星降る世界を歩く。
地面には、あの「つみき」とそっくりな石が散らばっている。
眞人は石をひとつだけ拾い上げ、現実世界に帰っていった。

現実世界では戦争が起きている。
眞人の父が作っているものは、あのひどく美しい零戦のコクピットだ。眞人たちはそれで食っている。
世界の醜さと自分は、どこまで行っても切り離せない。

それでも眞人は、美しい野原を、新たな母と友人のもとへ駆けていくのだ。
人の悪意に触れていないうつくしい石をポケットに抱えたまま。


生命は美しい。
愛情は存在する。
悪意に濡れたまま、それでもうつくしいものを抱えて生きていくことだって、きっとできる。


君たちはどう生きるか。

問いは、「生きる」ことを確固たる前提としている。

この映画は宮﨑駿のこれまで創作に捧げた人生と、これからを生きる人々の生命や作品を、力強く肯定する物語だと私は感じた。

創作の功罪から目を逸さなかったその先に、「ピラミッド」ではない、真にうつくしい石の塔はきっとあるのだから。



スタジオジブリは、『天空の城ラピュタ』制作時に立ち上げられたアニメーションスタジオだ。
天空の城ラピュタのコンセプトは、「アニメを子供のためのものに取り戻すための、血湧き肉躍る冒険活劇」だった。

そうしてはじまったスタジオジブリの映画制作部門は、先ほども述べた通り、既に解体されている。
宮﨑監督も、今度こそこれが本当の最後の作品になるであろう。

「子供のための物語」を創業の軸にしていた、老作家とアニメスタジオが、最後にひとつの問いを通して、子供と子供だったすべての人の手に希望を手渡してくれたのなら、こんなに綺麗な終わりがあるだろうか。



石は――意思は、託された。

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