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麻原彰晃、ふたなり説

お便りが届いた

を読んで思った感想を書く予定だった.だがそのつもりで本稿を書いていたところ,原記事は非公開となった. 取り下げられた文章に対して批評を行うのは自分の望むところではないので,先程まで書いていた内容はお蔵入りになる.

「hikki氏『愛は地球を救うのか?』を読んで」になるはずだった記事 - ミシシッピ川以東のルイジアナ (hatenablog.com)

note書くの早すぎて批評追いついてなくてウケる。魚拓取られやんでよかったー。あれ呪物なので。

批評記事は全て想像通りの内容でした。こう言ってくれる、思考を軽んじない「誰か」がいてくれて改めて救われたなと思いました。

しかも「あなた」もいました。

怖いから「罠やわざと喜怒哀楽を出させ、自分の土俵で勝負する」自分のうすら寒く奄われたサディズム性を人として真っ向からぶん殴ってくれ、業を私ませるなと、怒られました。すごく、嬉しかったです。

早く寝ろって言われたんすけど、「何で死んだんだよ。ふざけんなよ。諦めてんじゃねーよ。またお好み焼き食べたかったし、リンゴ向いて欲しかったよ。」ってめちゃくちゃ怒って泣いて喜んで、楽しかったと思えて、やっと一つ弔えたと思います。改めて感謝を。

やっと立ち止まって、怖くても僕の信念と俺の役目とを共生する道を選ぼうと思えます。

思い出す度に何回も会いたくて涙が止まらないけど、そんな人生を、涙が出せる人であって良かったと、命があり、尽きる我が身を肯定できるように、 これから「僕」と「あなた」と「誰か」に見守ってもらえることを願いたいです。

すいませんこっから「誰か」の話するんは蛇足では?しないとダメ?もうオチついとるって。

長々と説明しようと思ってたんですけど、サディスト文学特有の「不快が満ち」てしまうのでなし。もうしんどいねん!!!

総括

これで分かるっしょ。

補足

あの量をこんな舐めた答えにするのはいかんでしょ。ということでもうちょい。努力を否定しちゃいかんからね。

前提

一々サディズムごっこするの疲れたしキツいんで先に種明かし。

サディズムとマゾヒズムの解釈は星の数ほどあるんすけど、とどのつまり

  • サディズム…理想の現実化

  • マゾヒズム…現実の理想化

かなと。科学者にサディストが多いのも納得っしょ。あとサディズムとマゾヒズムは対立概念ではないからな。

回答

ではその上で。ネタの解説書くの思ってるよりハズイからな。自分への罰だと思ってやるけど。

齟齬が生じた原因は「賛同する」とか「結果である」とか「差別」「自由意志」のような言葉の定義が不十分であることであって,もちろんより厳密に定義すれば解消されるのかもしれないが,そもそも形式論理によってこの問題を扱おうこと自体ナンセンスに思える.

元を正せば件のポスト自体が(氏いわく)実験的試みであって,その仔細ないし女子枠に関する議論自体が彼の興味の範疇にないのかもしれないし,だとすればこれらの指摘は全く的外れということになる.とはいえ私は興味があるので,できれば上記について氏の教授を得たいものである.

「hikki氏『愛は地球を救うのか?』を読んで」になるはずだった記事 - ミシシッピ川以東のルイジアナ (hatenablog.com)

さすがにラッセルのパラドックスを出した意図は伝わらんかったか。非形式論理学を知っていると思ってた。

人や時間の軛を越えた絶対否定を目指すサディズムには形式論理しかありえません。目指すべき道こそが、ナンセンス、否センスなんです。 

マルキ・ド・サドの破綻はこの否のイデアを認識したこと、つまり「ナンセンスを思った」点にあります。

以上の点でこれではまだダメです。齟齬が生じたのではなく、齟齬は生じさせています。定義は揺らしています。

揺れる余地を残す事で、否を想像「していない。」とできるためです。あくまで論理と推論が軸で人間の問題であると、できてしまうためです。

生界の有限性なる揺らぎであり、無限に反復思考すれば、収束して絶対否定が達せられるというサディズムの論を脱せていません。

とりもなおさず,甚だ身も蓋もない話ではあるが何もかも前提次第ということになる.前提が個々人によって違えばどれだけ論理的であっても個別の論理により推論される帰結は単なる個人の感想でしかなく,前提を共有することではじめて複数の人間が同じ帰結を得ることができる.

その通りであり、だからこそ、サドは人間を否定するんです。「前提を共有する事で共有で同じ帰結が得られる。」この部分が良くないんです。

前提以外のすべてを破壊しつくして同じ帰結を作るサディズムは賛美されることでしょう。

2はともかく,1と3の関係について考える.1でいう思考や論証のことをまとめて推論と呼びたい.推論とはいくつかの命題からある結論を得るような営みのことである.1の意味での論理とは,この推論のうち「妥当」なものを選んできてやはり「妥当」に組み合わることや,その組み合わせたもののことであるとする.本稿ではこれを人間の論理と呼ぶ*1

ここでは差し当たり次のような構図を信ずる.人間の理性なるモノが備わっていて*2,推論を行ったり推論の妥当性を判定したりすることができる(上記の1).それらを研究・応用するために形式的な規則によって推論を再現する仕組みこそが,数理論理学*3で扱っている形式論理である(上記の3).

同一の理由です。「人間の論理」で「推論の妥当性」が妥当であるならばそれは是?

推論を再現する仕組み」で論じてはいけないのです。

要約するとこのようになる.形式論理の体系は人間の論理の再現であって,誤解の余地がないよう明確に記述されている.さらにある前提の元ではある体系における妥当な推論と人間の推論が一致するので,人間の推論で述べられるべき現実的問題について体系上の推論で議論できる.だがその前提が常に採用されるとは限らず,今のところそういった社会的共通認識もないので,全ての現実的問題に使える銀の弾丸のような形式論理の体系はない.

「ある前提の元で」一致してはいけないのです。前提以外のすべてを消却するサドの絶対否定は正当化されます。

警句

詐欺師のゲームに参加したら絶対に負けます。

以上。

対処

ラッセルのパラドックスはこれやニヒリズムの解消法を問われているといえます。

例えばラッセルはこれに階型理論を持ち込みました。

調べる余地を(お互いに)残したいしざっくり説明ですが、ゲームを理解したうえで「机上の空論」と言い返しました。「ある結果の下で」一致するとした着想です。

前期ウィトゲンシュタインー「論理哲学論考(1918)」-も同様の考えでした。この本の結びは「語りえないものについては沈黙しなければならない」です。

実証主義者の格好のネタにされた本ですが、このニュアンスは「言語の限界」を示したとも捉えられるでしょう。無限の反復推論でナンセンスには到達できないのです。

ラッセル前期ウィトゲンシュタインが近しいのもお判りでしょう。これを答えとします。そろそろ本筋の話していい?

オタク伏線回収タイム

ウィトゲンシュタインって凄いぞの話


前期ウィトゲンシュタインはラッセルを更に鋭敏とし、「論理は何も表さない。」として、ある/なしというものすら「ない」、真空であるとまで言い切りました。

今なら真空ってそらそうだろって話すけど19世紀は真空なんて概念「なかった」んすよ。何もないなんて「有り得ない」だったんすよ。ウィトゲンシュタインは思ってるよりずっと天才っす。

科学史オタクタイム

エーテルについて

なんでわざわざイデアの話出したと思ってるんですか。エーテルの話するためですよ。真空-何もないなんてなく、エーテルなる存在があるとしてたんすよみんな。

マイケルソン干渉計(1887)って知ってますよね。

マイケルソン・モーリーの実験は今となっては絶対座標を否定するものとして有名ですけど、大元は「非常に小さなエーテルの影響(エーテル風)を測定し、エーテルを肯定するため。」の実験です。

エーテル風とあるように、太陽に対し地球運動が風を引き起こしている(地動説)と仮定し、マクスウェルよろしく光を電磁波と捉え、波の干渉縞から風向きを観測し電磁波を媒介する風の存在、エーテルの存在を示そうとしました。

結果として想定より、地球の公転による影響を廃せざるをえないほど計測結果が小さくなり、その実験があまりに緻密であったこともあり、エーテルの存在自体を疑う局面にまで発展しました。

エーテルがある世界

ローレンツはエーテルの存在を擁護し。これを「光速度に近いために起きる収縮」として、ローレンツ・フィッツジェラルド収縮(長さの収縮)(1892)を提唱し、 加えて静止空間ならエーテルの影響(中心間力)は無視できないぞとして電磁気学における時間と空間の関係を組み込んだローレンツ変換(1904)を提唱しました。これは環境設定の変化によるマクスウェル方程式の拡張や擁護に近い意味をもちます。

つまりはエーテルが絶対であり、それを基準とした絶対座標があり、それに応じて世界が変わるとしました。

ローレンツ・フィッツジェラルド収縮のキモは「エーテル次第で蛇が本当に縮む。」つまり、「エーテルがないのではなく、エーテルの影響で速さの変化した光が縮み、干渉縞が起きない。」とした説明です。めっちゃ速く動く電車内では俺らは「本当に小さい」んです。

逆にエーテルの存在を否定する科学者も現れました。誰でしょう。

エーテルがない世界

アインシュタインです。

慣性座標系に対し、等速で運動するあらゆる座標系は等価。(相対性理論)」と「真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係(光速度不変の原理)」をまとめ、特殊相対性理論(1905)を発表しました。

これらのポイントは「静止空間のエーテル」を否定する事にあります。

エーテルを基準とした座標系を、もっといえば「静止空間」のエーテルと「動空間」のエーテルなどの区別はなく、それは対等だと言いました。

つまり「動空間」にエーテルがなければ、エーテルはないのです。

この等価性を示すため、ローレンツ変換を採用し、光の影響を組み込んだ統一理論を作成しました。半分NTRだろ。

比較

ローレンツは物質の相互間に働くエーテルの影響が絶対であり、相対的な系で異なる力が起きているとしました。

だから系を変えればエーテルがある、エーテルのある「絶対時空」があるからこそ、「静止空間」のエーテルを考えたわけです。有神論っぽいっすよね。

アインシュタインはそうではなく、「光速度だけが絶対であり、あとは全てそれと比較して認識が変化する。」とし、『何が起きても変化しない「絶対時空」などの基準はなく、絶対なのは光速度だけ。』と主張しました。つまり、エーテルはないと、条件を「変えたとて」我々の世界では変わらないと、エーテルを、絶対基準の否定を行いました。無神論っぽいすよね。

余談

2人の関係性

対立煽りっぽく書いちゃったんですけどアインシュタインとローレンツは仲悪いわけではないです。考え方の違いです。

「光速度に近い慣性系で物質の慣性質量が増加する。」データがある場合、「本当に」質量が増加する立場がエーテル論で、環境の違いから「そう見える」だけが相対論です。

事実、これが計測誤差でないかと指摘された時、

at the end of my Latin

と返答し、アインシュタインを擁護しました。my Latin ―私の持つ知識-は役目を果たしたのです。

ローレンツは愚かか?

読んで分かる通り、ローレンツはそれ自体で電磁気学における相対性理論の説明を為しています。なぜ長さが収縮するのか、絶対でない時間の存在を説明できないままに。ローレンツ変換の

アインシュタインはなぜ時空間の変化で説明ができるのかに着目し、結果として、「絶対でない時間」といった区分けはなく、系にある時間は「純粋に時間」である、「真偽」はない。として電磁気学だけでなく、力学、光学すべてを統一することに成功しました。

普通「同時刻なら同じ時間経過」だろってしたいのに「同じ時間経過でも時刻変わるだろ」って出来るの頭おかしいっすよね……

まだロケット飛ばして宇宙飛行士と「同じ時間経過だけど年月違って浦島太郎状態」とかやってない時っすよ。アインシュタインって信じられないレベルに天才でしょ。

何度も言っている様に考え方の違いにすぎません。

ローレンツはローレンツ変換を「現在の、局所的な時空間が絶対時空間との差で変化したとしてもどんな時空間でも合わせられるようマクスウェル方程式を拡張する」と捉えたのに対し、アインシュタインは「座標系Aから座標系Bにマクスウェル方程式を変換するには時空間の表し方を変換する必要がある」としてローレンツ変換を捉えたにすぎません。

なんせローレンツはカッコいいっしょ。真実の愛があるとしたら、どんな世界でもそれを見つけられるって言ってるようなもんだってこれ。世界最高のロマンチストだわ。

ローレンツはその最期まで絶対時空に別れを告げきれず、アインシュタインを認め、アインシュタインに賞賛されてなお、「光速に動く座標系での時刻及び現象こそが絶対であると、我々は相対時空にいる」と、それを自覚してなお、絶対を諦めなかったんです。

ウィトゲンシュタインの凄さ

特殊相対性理論を加速度をもったより一般の座標系に拡張し、「すべての座標系で物理法則は同じ形式を示す。一般相対性理論(1915)を発表しました。

前期ウィトゲンシュタインー「論理哲学論考(1918)」-も同様の考えでした。この本の結びは「語りえないものについては沈黙しなければならない」です。

彼には真空があったんです。

予告

ゼノブレイド2はエーテル(おっぱい中心間力と鬼みたいなガチャ)がある世界の話です。

今年中にそれ語りたいですね。

ということで今日はここまで。ローレンツとゼノブレイド2に愛を込めて。








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