有名武家の家制度について考えた

保守の杉田議員がかつて「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのか」と同性愛者に対して言い放ったということがあったが。
そういう意味で生産性がないといえば豊臣秀吉である。ルイス・フロイスによると秀吉には100人以上の側室に当たる女性がいたそうで、そこに現代ではありえないような税金を投入して養っていたが、実の子供は一人も生まれなかった。とはいえ生物学的には明らかに秀吉の子供ではないが淀殿が生んだ秀頼は豊臣秀吉の子、豊家の子である。天皇および前関白たる本人が認めているのだから豊家の跡取りとしては全く文句がないのである。

日本の家制度というのは生物の本能を超克しているふしがあるのだが、それでもやはり血統というのは重視されたようだ

幕末以降の真田家は真田昌幸の血統とは関係ない。松平定信の血統、つまり徳川家康の血統である。それでも松平定信の子である、後に幕府老中になる真田幸貫はなんとかして真田の血統を残すべく奔走したがかなわなかった。

上杉謙信は越後長尾家の出身で長尾景虎が元服後の初名だが、じつは父の母親は上条上杉家という上杉宗家の分家出身である。関東管領山内上杉家の名跡を謙信に譲った上杉憲政はこれを知っていたのだろう。というのは彼は謙信に名跡を譲る前に常陸守護家の佐竹義昭に譲ろうとしたのだ。実は佐竹家は数代前に上杉家から養子が入っているため男系としては上杉氏なのである。ただこれまた家の事情で佐竹氏は源氏の名門だったためこれを受けなかったのである。

小田原北条氏は数十年前までもともとの素性がよくわかっていなかったが、現代では室町幕府の執政伊勢氏の庶流であることがはっきりしている。初代伊勢宗瑞以降、伊豆の北条を領地の一部(本城である韮山と隣り合う地区が北条)としていることから二代目伊勢氏綱は前時代の関東の執政の立場の家である「北条」を名乗った。
とされていたのだが、北条の名乗りの理由として伊勢宗瑞の母親は鎌倉北条得宗家の子孫尾張横江氏出身という一種のいいわけをしていた。「とされていた」
ところがごく近年の研究で二代氏綱の正室で三代氏康の母親も尾張横江氏が堀越公方について伊豆に下向した家の出身らしいのだ。この横江氏一族が鎌倉北条氏後裔というのは一応認められていたらしく、たとえば幕末の横井小楠はこの家から出たということでやはり北条平四郎時存となのっている。
つまり伊勢から北条に名乗りを変えたのは、北条の地を領地にしたという理由だけでなく妻方、母方の家の名字を名乗ったということになる。

日本の家制度は豊家のように血統を超克している部分もあるが、一方上述の三家をみるとやはり血統というものも重んじたのだなという感想を得た。

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