自分をジャッジしない。在るがままの自分であるということ。
かつての私は、自分を全自動的にジャッジし続けて苦しんでいた。
何故なのか?考えたときに、完璧主義で居たかったんだと思う。
その考え方から抜け出せたときに、完璧主義で苦しんでいる友人と久しぶりに再会した。
友人は、〜であるべき。という自分の中の理想とギャップに苦しんでいるようだった。
それは、かつての私だった。
職場の人にはいつでも親切にするべき
人前では、常に上機嫌で丁寧にいなければならない
女性なら、髪の毛ひとつ落とさず部屋を常に綺麗に保つべき
もっともっと体重を増やして魅力的にみせるべき
などなど、それは日々の私の生活をどんどん縛っていった。
本当の私は、真逆の性質を持っていて
職場の人に親切にできないこともある
機嫌が悪い時も多いにあるし
女性だけど、部屋は綺麗な時もあれば、物が出しっ放しの時もある
体質的に太りにくい
でも、上記の〜であるべきというのは、
いったいどこから来たんだろう?
それは、無意識のうちに、常識とか誰かの趣味であったり、〜と言われている。だから、そうすれば好かれる!と考えて、
誰かに好かれるためにしていたことかもしれない。
なので、どっちでもいいや!としてみたのだ。
そうしたら、生活も思考も自分の感情もあらゆるものが楽になったのだった。
ある種の強迫性観念からしていた行動をひとつひとつやめて、あるがままの自分でOKとしていく過程はとっても清々しく、誰かに好かれようとするのをやめることで、自分のことをどんどん好きになっていくのが手に取るようにわかった。
私は、気づかないうちに誰かの人生(自分が与えた役に合わせて振る舞う)を生きていたようだった。
自分を取り戻すと、空が綺麗で、布団が暖かくて、ご飯が美味しくて、音楽を聴きながら編み物をする。そんな瞬間にとんでもない幸せを感じるようになった。
時々、まだ元の他人軸に戻りそうになる時があるけれど、自分が自分のことを好きでいられる時、自分の軸を取り戻した時に、人生はすごく色鮮やかに見える。
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