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じいちゃん、今どこで生きていますか?

6月下旬から22時以降はパソコンを触らないようにしていました。いや、正確には7月からかもしれません。理由は単純で、夜眠れなくなってしまったからです。あとは、心が少し不安定になっていたからかもしれませんね。代わりに7月から1冊本を読む夜を過ごし始めたんです。そんな自分との約束も今日で絶ってしまうようですが。

『はなちゃんのみそ汁』(著者:安武信吾・千恵・はな/文藝春秋、2015)を読んでしまったからです。しまったというと下降な印象になってしまう気がするので良くないな。読んだからです。にしようか。

毎日本を読む時間がたまらなく愛しい。なんだあの至福な時間は。誰にも介入されない、干渉されない時間は、空間は。そんな時間が大好きになっています。今日は何にしよう。
そんな今日。私は「だいぶまえに読んだことがあるけど、いい話だった気もするけど、どんなお話だったっけ?」という気持ちでこの本を手にしました。

涙が止まりませんでした。


私の祖父はがんで死んだ。がんが見つかって2週間後に死んだ。末期のがんだった。私が高校3年生の夏だった。私は、祖父のがんが見つかる前に祖父が透析に通っていることは知っていた。その当時、透析とかそんな難しいことはわからず、ましてや知ろうとも、知る気にもなれなかった。面倒臭かった。私の「いま」が大切で、ともだちという人といる時間がなんとなく好きだった。高校生が目指す、青春を感じたかったのかもしれない。祖父はいつも、私の家の縁側に座って遠くを眺めていた。朝は新聞を片手に、昼は寝転んだりテレビを見たりしながら、夕方は流れる空と港に帰ってくる舟を眺めながら。祖父の家ではなく、なぜ私の家だったのだろうと今になって考えることがある。
当時、そんな祖父の気持ちが全くと言っていいほどわからなかった。分かろうともしなかった。だからいつも凍るほど冷たい行動をとってしまった。いまでもなんでだろうと、反抗期を口実に、向き合うという行為ができなかったのか不思議におもうことが多い。悔いが残っている。
高校3年生の夏。私は陸上競技の大会で1週間ほど沖縄に滞在していた。実家に帰る。翌朝、学校に向かおうと自転車に足をかけた時だった。「じいちゃん、がんみたい。もう永くないみたい。」と母が言った。私は「そうなんだ。」としか言いようがなかった。

がん。死ぬ。悲しい。だけど、私、じいちゃんのこと何も知らない。今まで冷たくもしてしまったし。あんまりはなしたこともないし。だけど、私のじいちゃんだし。悲しい。だけど。

そんなことをずっと考えながら私は学校に向かうしかなかった。久しぶりの学校。学校に着けばいつものようにともだちという人たちがいた。でも、ともだちは何も知らなかった。じいちゃんががんになったこと。じいちゃんがもうすぐ死ぬこと。私がよくわからない悲しみを抱えていること。当然だ。言ってもないのにわかるはずがない。私は言えなかった。この気持ちは私にしかわからないと感じていたから。「え、大丈夫?」とか「なんかあったら言ってね」とかで同情されるのを嫌がったから。話さなくても、じいちゃんは死ぬから。


高校3年の期末試験最終日だった。がんが見つかった当初の余命宣告より、はるかに短い2週間という期間だった。担任の先生から「おじいちゃんが…」そう告げられた。その日は確か古典の試験があったと思う。でも全然解けなかった。ずっと、じいちゃんは死ぬとどこかで気付いていたからだろうか。その日の朝、母から「じいちゃんが危篤みたい」と告げられていたからだろうか。じいちゃんは死ぬのに、私はここにいて、こんな無意味な時間を過ごしていると感じたからだろうか。私はじいちゃんと最後まで話しができなかった。
すぐ自転車に乗って、ゆっくりか全速力かわからないくらいのスピードで家に帰った。誰もいなかった。とても静かだった。夏の空は晴れ晴れしていて、灼熱のような暑さだったからか。静けさがとても気持ち悪く、引くような寒さを感じた。母に電話をした。けれど母は電話に出なかった。父も同じく電話に出なかった。母方の父に電話をするも出なかった。私はこの世にひとり取り残されたのかと、当時高校生なりに本気でそう感じたことを今でも覚えている。ああ、死んだのは私なのかもしれないと。


数時間後、母が家に帰ってきた。私は生きていて、じいちゃんは死んだ。死んでいた。間違っていなかった。母は「ごめんごめん、じいちゃんを連れて帰ってきたよ」とやさしく言った。私は、じいちゃんが死んでから私がひとりでいたこの時間が、母や父にとっては一瞬の時間であったことを、母の荒い息から読み取ることができた。
じいちゃんちの近くの親戚の家に向かった。じいちゃんが帰ってきていた。寝ていた。私以外のほとんどの人は集まっていて、なんで教えてくれなかったんだ!という憤りも少し感じていた。けれど、あの時間は、あのひとりで感じて考えた時間は、じいちゃんと話す時間だったのかなと、今。
周りにいる人間は脱力していた。魂がないみたいだった。父は特にそうだった。無口な父が、感情をあらわにしない父が、悲しいという気持ちを抑えられなくなっていた。私はそのとき、おとなも親も人間なんだと理解した。私は父が哀しみを抑えられない現場を目の当たりにして、哀しくなった。

通夜も、葬式も、私は泣かなかった。悲しかったけど、泣かなかった。悲しかったよ、ほんとうに。泣きたかったよ、ほんとうに。でも、私はじいちゃんのこと何も知らないし、何も話し合ったことはないし、冷たくしてきたんだ。ずっとそんなことを考えて、泣くことができなかった。今、泣いてしまった。

じいちゃんもういいかな。
私はやっと向き合えたかな。
ごめんね、痛かったよね。
我慢していたよね。
何を考えていたの?
何をみていたの?
死ぬ前何を考えていたの?
病院で最後に見せた笑顔、あのときどんな気持ちだったの?
今どこにいるの?
今どこで生きているの?


『はなちゃんのみそ汁』
ぜひご一読していただきたい。
人はいつか、今日かあしたか、いつか死んでしまう。だけど、死んでしまう。必ず死んでしまう。願っても願っても、死んで、生きて、産まれていく。


最近、私やることがなくなったんですよ。
急に何!?と思われるかたもいるかもしれませんが。私はただの23歳の大学生なのですが、今は休学中でなんというか無職と言いますか、だからやることが何もなくて。長期インターンとやらをやっていましたが期間が終了し、新規事業とやらも一旦ストップとなり、本当にやることがなくなって。
気付いたんです。何もないってほんと何もないんだと。人間って生きているんだと。私は今日かあしたか死ぬかもしれないと。死んでも誰にも気付かれず、孤独死するかもしれないと。でもね、怖くなかったんです。死ぬこともひとりでいることも。この書き方あまりよくないですね。死を知らないくせに、死ぬことが怖くないとかいうなと言われそうです。ごめんなさい。
以前は、社会とある程度のつながりとか、へんに気を遣うような人間関係があって、それが私は怖くて。いつか、誰もいなくなるんじゃないかとか、私のこと忘れていくんじゃないかとか、見捨てられたらとか、まあ人間ですからそのくらいの恐怖とか繋がりを求める人間ではあったと思います。
でもね、持たねばいけない任務や人間関係が何もなくなった今、楽しくて。(あ、これもまた誤解を生みそうですね。簡単にいうと、無理していた人間関係ですので、それぞれで自己解釈ください。。)こんなに生きていることを実感できているのは久しぶりですね。朝起きて、朝日を浴びに浴びる。そしていっぱいのお水を飲む。ご飯と納豆と味噌汁を準備して食べて。少しして珈琲を淹れる。その後は勉強したり本を読んだり。バイトがあれば向かい、なければ本を読んだり運動したりする。特別なことをしているわけではなくて、現代社会からしたら、卑下されそうな生き方かもしれませんね。でも、少しの人はこんなふうに生きていけたらなんて思うかもしれませんね。
私が今この生活をできているのはきっと、学生だからかもしれません。きっと社会で働く人より入ってくるお金は少ないけれど、出て行くお金も少ないからかもしれません。母がいて、父がいて、周りに人がいてくれるからかもしれません。だから、こうしろとかああしろとかそんなことが言いたいわけではなくて。何もないときこそ、自分を感じられるんじゃないかなってことを無責任に、23歳なりに、言いたいのかもしれません。あれがこれが、スキルが、年収が、そういう時代に生まれたものはそう生きて行くしかないのでしょうか。太宰治とか忌野清志郎とか知らずに散ってしまうのでしょうか。私は今、何もないという生活ができて良かった。少し生きることに希望がもてて良かった。

生きること、食べること、死に向かっていること、笑うこと、泣くこと、かなしいと言うこと、頬を合わせること、それらに真剣であること。


『はなちゃんのみそ汁』を読んで、私はようやくじいちゃんと向き合うことができたのかなと思います。かなしいことと向き合うことにはどうしても体力がいりますから。今ようやく、もう5年くらい経ってしまったけど、向き合えてよかった。じいちゃんのことを忘れることがなくて、たくさん思い出すことができてよかった。

そして、その機会をくださった安武信吾さん、千恵さん、はなちゃんに感謝を込めて。「ありがとうございます。」


安武信吾・千恵・はな著『はなちゃんのみそ汁』文藝春秋/2015



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