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駄文#9 いるものいないもの

こんにちは、抽斗の釘です。

お盆も開けて一区切り。夏も徐々に残暑の季節へと移っていきます。

暑さはまだまだ残りますが、
なんとなく、季節も一年の後半の始まりに近付いているな、
と、そんなことを感じたりします。

京都の五山送り火も終わり、また終戦記念日なども過ぎていき、
なんとなく、周囲から死者を思う賑やかさが過ぎていくような感じがして、
それも相まってか、夏の終わりというものはなんだか寂しいもので。
空気の密度が下がっていくような。
盛衰の強かな波が去っていき、やがて凪に向かっていくような。

死者を思う、ということには、私にはどこか満ちるような感覚があるように思われます。
お墓や神社にお参りに行けば、なんだかすっきりするようなことに近いでしょうか。
死そのものは喪失ですが、何かを思う時間というのは、
不思議と心を満たす効果があるように思います。
お盆にはどことなく、そんな豊かさがあるように思うのです。

お盆が終わり、死者も去っていき、
まるで満員電車が主要駅に着いて、多くの人が降りた後の車内のように、
あとに残るのは生きている自分だけとなります。
満たされていた車内は、もうがらんとしています。

死者を思うということは、つまり振り返るということでしょうか。
死者とは過去の人です。死者の姿は老いません。
ならば死者を思うとき、そこには過去の自分がいます。
あの人の生前の姿と、その時の自分。
その時の自分と今の自分。
顧みてみて、何が変わったのか。何が変わらないのか。
あの時はああだったな。今の自分ならこうするだろうな。
いろいろそうやって振り返り、反省し、恥ずかしくなったり。
そして振り返ることもここらで終わりにして、またここから出発する。
お盆の終わりは、そんな時期のようにも思います。

過去は集約し密度濃く、また、未来はまだ何もありません。

我々がどこかで想像している、
お墓の幽霊や神社の神様、
送り火に導かれていく死者たちは、
そうやって切り替え進む人の思いや、
もしかしたら過去の自分の残像が、
それらを形成しているのかもしれません。

少しオカルトチックになりましたが、それもお盆のせいということにして。


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