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駄文#10 親ガチャ

こんにちは。抽斗の釘です。

30代になって、妊娠、という言葉をよく耳にするようになりました。

友人知人からそんな便りを受け取るたびに、
あいつが父親か。あの子が母親か。などと驚きながらも微笑む日々です。

しかしそれは決して他人ごとではありません。
近い未来にも自分がそうなっているかもしれない。
人の親になるかもしれない。
そんな可能性を考える年齢です。

そんなことを思うとき、合わせて浮かぶのが「親ガチャ」という言葉です。
近年流行語大賞にも選出されていましたから、耳にされた方も多いでしょう。

子供が幼い時はまだいいのですが、
思春期になるとどうしても周囲というものが気になりだします。
比較が始まるのです。
そんなとき、親ガチャという観念が生まれ、合わせて
「産んでくれなんて頼んでない」
なんて言われることもあるでしょう。

そんなことを言われてしまった日には、どう接したらいいのか。
そんな妄想を巡らしてしまいます。

私としましても思春期をこじらせた部類ですから、
直接親に言わなかったにせよ、少なからずそう思ってきました。
親の理想を強要されたとき、
もしくは友人と比べてあまりに自分の家庭が不遇に思えるとき、
「産んでくれなんて頼んでない」
という考えが湧き起こったように思います。

いま、自分を産んだ親の年齢に近付くと、
親の立場というものも想像できなくはないもので。
かといって、子供の気持ちもわかります。
そうすると、
「産んでくれなんて頼んでない」と言われれば、
「たしかに」
などと思ってしまう。

芥川龍之介の「河童」に、そんな出生に関する描写があったように思います。

河童は出産の時期になると、
父親が母親の股に嘴を埋め、
おなかの子に、この世に生まれたいかどうか尋ねます。
子供がNOと言えば、子供はたちまち水のように溶けて流れてしまう。

おそらく、そんな内容だったと思います。
彼の出生が大きく関係しているゆえの発想だと思いますが、
明治の文豪も、そんな思春期が抱くような発想をしていたかと思うと、
なんだか親しみを覚える次第です。

ともあれ、
私も「たしかに」と思ってしまうように、
そして思慮深い文豪が着想したように、
子供の出生の意思というのはなかなか、難しい問題のようです。
だって、本当に、子供は親を選べないのですから。

出生の選択の無さ。
一方で。それを「ガチャ」と呼ぶのは、なんだか現代の優しさを感じる気もします。
悪いのは親ではなくて、自分の運だと、言っているようなものですから。
そこには努力では変えることのできない運命、
という意味も含まれているようで、
どこか無気力な、どこかあきらめを帯びるような、
そんな現代の空気も漂っている感じがします。
あきらめ。もしくは受け入れでしょうか。

きっと、「親ガチャ」という言葉に嫌悪を覚えるとき、
「運命や人生は自分で切り拓くもの」という気持ちが強いのかと思います。
もちろん、それは間違いではなく、一面では正しい。
しかしそうとは言わず、「親ガチャ」と比喩する現代に、
許容や優しさという現代の空気を感じずにはいられません。
しかし何事も反面があるもので、
許容や優しさの反面は、自分の押し殺しでしょうか。
自分を押し殺すためには、それだけ逃げ場所が必要になります。

なんだか「ガチャ」という言葉には、
平等なスタートラインがあるような印象を受けます。
出生の際、まるで魂というものが一律に集められ、
くじ引きでもしてそれぞれの親に充てられるような。
そんな、お伽話のような集団観念を感じずにはいられません。
そんな空想。
空想が、いつでも人々の逃げ場所になります。
芥川も「河童」を描いたように。

しかし人々はどこかで分かっているはずです。
カエルの子はカエル。
河童の子は河童。
産まれた子は、どんなに運が良くても悪くても、その人にしかなれない。
親は子を選べず、子は親を選べず。
どう運命が変わろうと、現実は今あるものひとつだけ。
あなたの親からは、あなたしか生まれなかった。
そんな現実に逃げ場はありません。
そうすると、「ガチャに外れた」という表現には、
逃れようのない事実、つまり自分や親の存在はぎりぎり許容するしかない。
でも、境遇は呪う。
そんな苦しさを感じます。
そしてそんな苦しさを紛らわすための、
「運が良かったなら当たっていたかもしれない」
という空想が垣間見えたり。

しかしなかには、そんな自分の存在すら許せない子供もいるでしょう。
「産んでくれなんて頼んでない」
と叫ぶことは、
「生まれてこなければよかった」
と、思う心を、言い換えているゆえでしょうか。

とすると、
親を非難しているように見えながら、
同時にそれは、自分への非難のようにも思えます。

つまり、子供が「産んでほしいなんて頼んでない」と叫ぶとき、
深層を探ると、
自分の現状や自身そのものを、理想と比較し許せないと、嘆く心理なのだと思います。
とうぜん、その否定したい自分を作り上げた環境は、
親や家庭環境も要因とはなりますが。

しかし根底は自分への非難でしょう。

そんなとき、
私は「それでも君には生まれてきて欲しかった」
などと、その場しのぎの詭弁を使えるでしょうか。

子供の自分を許せない苦しみは何なのか。
子供の理想と環境のギャップはどこにあるのか。
すぐには解決できないでしょうが、それらをつぶさに、具体的に確認する必要があるように思います。
絶望する、悲観するのは、確かな希望や理想があるためでしょうから。

現代では、子供も、許容すること、優しくあることを求められます。
しかし許容できない現実があるのも事実で。

それを擦り合わせる機会がある関係を親子というのであれば。

親ガチャと言う言葉を使って、
苦しみながら必死に現実受け入れようとする子供たちを。
それを目の当たりにする機会が与えられているのが、
親子という関係ならば。

一方的な愛情の押し付けを子供たちに許してもらうのではなく、
苦しみしかない現実を、
ともに歩むという姿勢を示さなければならないのかもしれません。

いまこのように考えていると。
思春期の私は、正解や指示が欲しいわけではなかったように思います。
ただ、人生に共闘する味方が欲しかったのかもしれません。



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