見出し画像

27.ロールモデルを作るのはだれ?

ラフ1

このラフは今日このツイートを見て描いたものです。

「眼鏡をかけたプリンセスがいて欲しい」という少女の願いは決して今に始まったことではないのだと思います。守られるばかりじゃないプリンセスが、有色人種のプリンセスが、ボーイッシュなプリンセスが、いて欲しい。みんなそれぞれに気づいています、こんな子はプリンセスになったことがないどうして?と。

プリンセスの見た目やキャラクター性に自分との共通点を見つければ子供はうれしいものですし、自分にない部分があればそれは憧れとして成長過程の手本とします。歌が上手くなりたいとか、動物と仲良くなりたいだとか、そんな純粋な願望が芽生えるきっかけになりうるかもしれないという反面、自分の努力ではどうしても克服できない部分に気づかされるという悲しい一面もあります。自分とは肌や目の色が違うこと、病気や障害を持ったプリンセスなんていないこと、育った環境が違うこと。お世辞にも多様性があるとはいえないディズニープリンセスに対してディズニーがこれからどう対応していくのかは期待を込めて見守りたいと私個人は思います。

このツイートでもう一点気になった部分は、「創作物のメガネ女子はみんなオタク風」という点です。これに関して言えば責任はディズニーだけではなく、世界中のあらゆる創作物にあります。

映画や漫画が好きな人ならだいたい記号としてこれらのアイテムが何を示しているのかは明白でしょう。メガネはナード(オタク)、歯列矯正器具はダサい奴、ピアスとタトゥーは不良。などです。でも社会のほとんどの人はメガネを使用しているし、海外では歯列矯正は全然珍しくもないし、ピアスもタトゥーもファッションとしての認識が年々強くなっています。それでもこの古いイメージは変えられない。むしろ都合よく表現物の記号としてあしらわれ続けている。そのことがいつもいつも私は気になって仕方がありません。

私は今回この話題をnoteに記すにあたって、自分の過去作品からメガネの絵をもってくるべきだと思ったのですが、それはできませんでした。なぜなら、私の過去作のほとんどが自己投影から描かれたもので、メガネユーザーではないわたしは積極的にメガネを描くということをしてきませんでした。もちろんゼロではありません。ただ、そのほとんどがメガネをかけていることになにかしらの意味が存在していて、ただメガネをかけているだけの人の絵ではなかったのでここに出すのは適切ではないと思いました。

大学で商業イラストレーションを学んでいて、プロのイラストレーターの先生方によく言われ覚えている言葉の一つに「どうしてそれがそこにあるのか、そこに意味を持たせろ」ということでした。たとえば商品に添えるために草原の真ん中に人が立っていて手には花を持っている絵を描いたとします。するとそれを見た人は、「この草原で摘んだ花だ」とか「これから墓参りに行く絵なんだ」とか好き勝手想像してしまうのです。花の種類、色、大きさ、描き方でその想像を誘導して商品のイメージをアップさせることがイラストの仕事です。なので、ぼんやりとただ花を描くな、描くなら意味を持たせろ、ストーリーを感じさせろというのがその先生の教えでした。

商業イラストやパッケージデザインなどにおいてこの考え方は当然で、この考えを持たずに仕事をしているプロはいません。ただこの考え方が根付いてしまっている私は絵の中に何かのアイテムを配置するときそこに意味を持たせずにいられませんでした。もちろん意味を持たせること自体が悪いことではないのですが、私の場合意味のないものを描くことが逆に怖くて、なんだか殺風景な必要最低限のものしかない絵になっていたのです。故に不用意にメガネは描けませんでした。五体満足な人が無意味に義手や義足の人を描いたりはしないでしょう?むしろ自分が描くことでそういった立場にある人をよく知りもしないで都合よく利用してるんじゃないかとさえ感じてしまうのです。

2018年、私が東京で個展をする半年ほど前から、私は似顔絵を描く練習を始めました。コミッションという形で一枚1000円、持ち時間1時間、女の子限定というものでした。その理由は個展に向けて自分以外の女の子というものを知りたい、観察したいと思ったからです。ありがたいことに、たくさんの人に協力していただいて色々と学ぶことがありました。似顔絵ということで、似せて描くことがもちろん難しかったのですが人の顔をじっくり観察していると、どの人もみんないい顔をしているなぁとしみじみ思うに至りました。そんなことは当たり前なんですが、みんな違う特徴があるのにそれぞれが可愛くて魅力的に見えて、そのパターンは無限なんじゃないかと感じたとき今まで自分の表現しようと思っていた物がまだまだ狭く小さい範囲の中のだったことを知りました。

それから、私はもっと多様な魅力を描いてみたいと思いました。自分にはないものを持った他人を見て知って、それを描くことを個展の後の自分の制作のあり方にしなければと思ったのです。そのために絵を描くこと以外に人を知るという訓練が必要で未だに継続中です。その末にいつか眼鏡の人、義手義足の人、外国の人、自分と異なった人、を意味など持たせることなく描くことができたらいいなと思っています。多様であることが当たり前になること、その当たり前を魅力的に表現することがクリエイターの端くれとしての使命なのではないかなと考えている2020年現在の私でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?