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ドメサカそこそこ昔話:おこしやす京都AC編

先日、某所で行われた全社(全国社会人サッカー選手権大会)勉強会の中で、古の事を思い出してしまったので書き記します。まさに古事記。国内サッカーオタクの深淵を垣間見えるYouTube LIVEでした。みんな詳しい……。

2000年代までの全社歴代決勝戦を振り返って、色々と話そうという会だったわけですが、1996年に教育研究社FCが優勝したという話で私の過去記憶が蘇り、頭の中が凄いことに。フットーしちゃうよっっ。そんなわけで、昔話です。おこしやす京都を見出しにしているのは、令和にKYOKENと言っても誰もわからないからですね。20年以上前のJFLなんて、ホンダサポとソ仙台サポしか覚えとらんわ!え、武蔵野サポだから覚えてる?そうですか……。


KYOKENとの出会い:序

時に平成12年3月10日金曜。西暦でいえば2000年でY2K。Y2Jといえばクリス・ジェリコ。私は仕事終わりの疲れ切った顔で、6チャンことABCテレビにチャンネルを合わせ、ニュースステーションを眺めていた。23時ちょっと前、スポーツコーナーが始まった。ブラウン管は、明日Jリーグが開幕することを伝えていた。初めて東京をホームタウンにするチームがJ1リーグに昇格したという。「確かに東京は無かった。川淵三郎と渡邉恒雄が揉めて、ヴェルディが川崎になったんだよなぁ。」その程度の認識でした。

思い返せば、Jリーグ開幕を高校2年生で迎えた私は、それなりにサッカーと触れていた。ドーハの悲劇は生中継を観ていたし、Jリーグ2年目のシーズンは、何故かパナソニック製品が大好きなクラスメイトに連れられて万博記念競技場へ。まだまだ寒い3月の水曜ナイトゲーム、ガンバvs広島をまだ芝生席だったアウェー側ゴール裏観ていました。芝生なのに席とはこれ如何に。

サッカー現地観戦を気に入った私は、まだまだブームでチケットがなかなか取れないJリーグでは無く、アマチュアの全国リーグである旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)へ興味が移ります。奇しくも、この年のJFLにはガンバ大阪に続いてJリーグ入りを目指すセレッソ大阪に加え、京都紫光サッカークラブが「京都パープルサンガ」に名を改め参入するという。「これは!」と、4月24日の開幕節を宝が池公園球技場で迎えたのでした。今は人工芝になってしまい、全国リーグのサッカー試合が行えない宝が池。車だと10分ぐらいで天下一品の総本店へ行ける宝が池。進学希望の高校3年生が頻繁に京都へ行けるはずもなく、この後は新聞の片隅にある結果を大会パンフレットの星取表に書き写す日々でした。

次に試合を観に行ったのは1994年8月7日。場所は神戸市立中央球技場……ってどこやねん!?わかる人にはわかる、今のノエビアスタジアム神戸ですね。試合はJFLオールスターゲーム。恐ろしいことに、その試合のパンフレットが手元に残っているのですが、表紙は柏レイソルのカレカとセレッソ大阪の森島寛晃。

エキサイティング16

試合もですが、カクテル光線に照らされた、20,000人規模の球技場に興奮したものです。まさか、この半年後に兵庫県南部地震でスタンドが倒壊し、ピッチも液状化現象で再生不可能になるとは思いもよらず。建て直されたのは、40,000人収容の神戸ウイングスタジアム。こけら落としの神戸vsF・マリノスも行ったし、日韓ワールドカップのロシアvsチュニジアも行った。そして現在の形になってからは、スタジアムボランティアとして裏の裏まで知り尽くすことになるとは思いませんでした。いや、本当に。

2003年3月の神戸ウイングスタジアム

KYOKENとの出会い:破

サッカー好きと千葉ロッテファン

松陰寺太勇さんに時を戻せてもらえたので、話は2000年3月10日23時頃に帰ってきました。ふと気づけば、テレビに映っているのは、東京初のJ1クラブであるFC東京のサポーター達。その姿は「やたらと楽しそう」でした。

「東京かぁ。そういえば5月にクラッシュギャルズ復活興行(女子プロレス)を観に行くなぁ。お!前の日に国立競技場で試合がある。チケット買おうっと。」

フットワークの軽さが信条の私は、仕事中にも関わらず京都府亀岡市にあった西友亀岡店の中にあったチケットぴあで、FC東京vsセレッソ大阪戦メインスタンド自由席のチケットを購入していました。当時のチケットぴあなので、手書きで申し込みましたね。今の若者が知らない「チケット発売日の早朝にぴあへ並んでいる集団」。

試合を待ち遠しくしていた4月中旬。私は某所で知人たちとオタクトークに花が咲いていた。この場合のオタクは「アニメやら、マンガやら、ゲームやら」といった、典型的なオタク趣味です。その中で、ディスティーノ-運命-な話題が出る。

「今度、サッカーの試合があるから観に来て。」

え?Jリーグ??すると、声の主は言った。

「西京極でJFL。」

ほんま、これ

そんなこんなで2000年4月23日。西京極総合運動公園多目的陸上競技場兼球技場(長い)に私は降り立った。カードはFC KYOKENvs横河FC(現:東京武蔵野ユナイテッドFC)。478人が集まった試合は当時のレギュレーションである延長120分でのスコアレスドロー。しかしながら、京都サンガサポの一部によって結成されていたKYOKENゴール裏(JFLなんて大体メインスタンドの端だけど)は「楽しい」の権化でした。紫光大権現。

KYOKEN初観戦の試合に同行していた知人に「招待券がある」と5月6日に神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で行われた、ヴィッセル神戸vs柏レイソルの試合へ。まさか、ヴィッセル神戸の試合を追い続け、本当に東奔西走することになるとは、思いもしなかったのですが、その話はまたいつか。

KYOKENとの出会い:Q

次にKYOKENの試合を観に行くのは、次回のホームゲームでした。今度の会場は京都府立山城総合運動公園陸上競技場。愛称は太陽が丘。宇治市と城陽市に跨る、大きな山の中に広がる公園の中にあります。対戦相手はデンソー。形は違うものの、現在のFC刈谷ですね。2000年なので、スタメンには後にJリーグへ個人昇格する徳重隆明の名も。ネット上に残っている公式記録を見ていたら、この試合の主審は当時サンガの職員だった「いえぽん」こと家本政明氏。どえらい試合を目撃してるな。

当然のごとく、その次のホームゲームも行きました。しかしながら、道中から異変が。太陽が丘へは自家用車で行っていたのですが、後にも先にも周辺道路から大渋滞で、駐車場へ入るのも一苦労なんてのはこの日だけ。そうです。この日の対戦相手は、前年末の横浜フリューゲルス消滅から特例的にJFL直接参入が認められた横浜FCだったのです……。いつもは300人いるかどうかのKYOKENホームゲームなのに、まさかの1,080人。桁が違う!更にフリエの血を引くサンバ隊まで登場。これは流石に形勢不利。そう感じた私は、なんとなく顔見知りになっていたKYOKENサポーターグループに合流するのでした。人生初の声出しサポーター活動はKYOKENでの横浜FC戦。沼が深い……。試合も0-1で敗北。悔しい!応援が上手くなりたい!
上手くなりたい!
上手くなりたい!!
上手くなりたい!!!

いや、ほら。宇治だから

そんな横浜FCとの試合は、当たり前のようにアウェー戦へ。人生始めてのサッカー応援遠征は京都から弾丸で三ツ沢バスツアーでした。本当に沼が深い。こちらは、古のレポートがあるのでそちらで。

シン:KYOKENとの出会い

私のKYOKEN熱は上がる一方でした。12チーム前後期制だった2000年のJFL。後期の対戦カードは以下の通り

大塚製薬@太陽が丘
横浜FC@三ツ沢
アローズ北陸@太陽が丘
静岡産業大学@藤枝市民G
国士舘大学@太陽が丘
本田技研@亀岡
デンソー@刈谷
ソニー仙台@宝が池
栃木SC@西京極
ジヤトコ・TT@愛鷹
横河FC@武蔵野陸

私はホームの国士舘大学戦以外、現地参戦していた……ッッ!

今のFC刈谷ホームスタジアムであるウェーブスタジアム刈谷も!

16年後、ユニフォームマニアのたくちゃんさんが、鳴り物が使えないからと、人力で鹿島のチャント「ロール」をカマしてバズる武蔵野陸上競技場も!

魂の故郷と化しつつあるアスルクラロ沼津のホームスタジアム、愛鷹広域公園多目的競技場も!

そして、藤枝MYFCのホームスタジアム藤枝総合運動公園サッカー場では無い藤枝市民グラウンドサッカー場……って、どこやねん。藤枝駅から相当歩いた記憶があるぞ、藤枝市民グラウンドサッカー場。実は翌年の8月にも「仲良くしてた在京の女性が大学サッカーを観に来ているから」という、実にやましい理由でベルマーレ戦へ向かう途中に寄っているぞ、藤枝市民グラウンドサッカー場。ちなみに、平塚に行った理由は下の画像となっております。本当に業が深い……

にょ。

ちなみに。国士舘大学戦を欠席した理由は、物理的に無理だったからですね。試合が行われた8月13日13時。私は、灼熱の東京ビッグサイトにいました。汗だくになりつつ、書籍JANコードの付いていない薄い本を買いまくっておりました。どう見ても夏コミです。本当にありがとうございました。

さらばKYOKEN 愛の戦士たち

翌シーズンも、開幕戦を見届けるべく、体調不良の中を多摩陸に駆けつけ、スタンドでブッ倒れたり(物理)……

平塚でのナイトゲームを見届け、湘南サポと居酒屋で日が変わるまで喋り倒していたのに、翌日太陽が丘で11時45分キックオフの京都府サッカー大会へ自家用車移動高速禁止なのに、はしご観戦出来たり……

色々とあったのですが、同時に追いかけていたヴィッセル神戸とかいう残留争い病に罹患したポンコツクラブへの熱量が上回ってしまい、KYOKEN戦へ顔を出すことは少なくなってしまいました。

2003年になり、チーム名がFC京都BAMB1993になってからは、本当に数試合しか行けず。京都でもかなり奥の方である園部(現:南丹市)で行われた試合に行ったら、渋滞で佐川の選手バスの到着が遅れて試合開始が20分押した上、プリンタが壊れてしまったらしく手書きの公式記録が発行されたり……

メンバー入力までは動いていたらしいプリンター

「ぶっちぎり最下位だけど、最終戦だから顔出して」と言われて、前日も京都パープルサンガvsヴィッセル神戸戦で行ったような気がする西京極へ行くも、見事に負けてしまい、やたらと気合入ったドット絵芸を見るハメとなりました……

筆:珍竹林さん

その入替戦も、群馬FCホリコシにトータルスコア8-2で惨敗して、関西リーグ降格していったのでした。ん?あんた、その試合も行ってないやろ。本当にすいません……

その後、紆余曲折あった上、クラブ名は「おこしやす京都AC」になり、第102回天皇杯JFA全日本サッカー選手権大会で、J1のサンフレッチェ広島に勝つというジャイアントキリングを起こしたのも記憶に新しいところです。通称「お京都」。

一方のホリコシは、この後アマラオ都知事などJリーガーを積極補強するも結果が出ず、10年ぐらいで解散してしまうのですから、サッカークラブ経営も一寸先は闇ですね。そういえば、2003年末に地元でサッカー絡みの何かあったような……

朝早くから電話かかってきて飛び起きたわ

KYOKENよ永遠に

KYOKENでの想い出……。そうですね。いつの事か忘れたのですが、スポンサーさんや選手の家族向けと思しきイヤーエンドパーティーが二条城近くの全日空ホテルで行われて、そこに招待されたました。サポーター一同様で。同じテーブルに好きな選手が居たから、緊張して料理も喉を通らないし、催しの最後には「応援コーナー」があって、チャントを一通り歌うことになるし。ホテルの宴会場に鳴り響くフロアタム……おかしいやん、普通。

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