見出し画像

『推し』についてちょっとだけ真面目に考えてみた

先日、ある席で「あなたにとっての『推し』とは何か?」と問われた。その場にいた人たちはそれぞれの考えるところを述べていたが、正直自分はあまり真剣に考えたことがなかった。よく言われる『生きがい』とかがざっくり言えば当てはまるのかもしれないが、いまいちしっくりこないところもある。なので、ちょっと真面目に考えてみることにした。

『推し≒生きがい』への違和感

間違ってはいないけど、自分の『推し』に関して当てはめるとどこか違和感がある『生きがい』という言葉。この違和感がどこからくるのか。
これは「『推し』がなければ死ぬ」みたいな感覚があまりないことに起因するのだと思う。例えば好きなアイドルやバンドが解散する時や、好きな作家やアーティストが亡くなった時、通い詰めたお店などがなくなった時に「生きていけない」という言葉はよく見られるし、勢い余って本当に亡くなる方なんかもいると思う。ある意味で本当にすごいことだなと思うし、そういう気持ちを否定するつもりはない。実際には死なない方がいいとは思うけども。
自分はどうしてもそこまでの気持ちを抱くことはなかったように思う。本当に全くなかったかは自信がないけれど、少なくとも今好きなものが失われたとして、辛い気持ちにはなれど、生きるのをやめようとは思わない。なぜなら、それでもなお自分が素晴らしいと思うものはたくさんあるし、その素晴らしいものとの出会いに期待しているからだ。
唯一無二のものは確かにあるけども、その唯一無二のものに関して何も残らないことはあまりない。映像や音楽、写真、はたまた自分の中の思い出すらもそうだと思うが、その唯一無二であるものを思い出す要素は何かしら残っているし、自分の中の思い出にすらなくなった時はおそらく、それがないと生きていけない状態からは脱している。
唯一無二という意味では、ライブ感もすごく大事な要素ではある。その人と同時代に生きた、そのバンドのライブを見た、などなど。ただ、それを感じるほどのライブ感を得たものであれば、それこそ自らの中の思い出に強く残っているのだ。どちらにせよ自分が死ぬか相手が消えるかのどちらかによって訪れる終わりがあるなら、永遠には続き得ないことを理解し、特別な体験となった思い出を思い出せる限り大事にする方が合理的に思えてしまう。

『推し』から何を得るか

ここまでを見返すと、お前は本当に『推し』と言えるほど好きなものはあるのか?実はないんじゃないか?と思われそうだが、そうでもない。自分で言うのもなんだが、いわゆる『推し』的なものがある時に、それについて語る自分の熱量はかなり高いと思っているし、周囲からもそう言ってもらったこともある。稚拙なりに話したいことはたくさん出てくるし、普段としゃべりっぷりも変わっていると思う。
その瞬間、自分の中で起きているのは大きな感情の揺れだ。感動した、幸福を感じた、切なくなった、やるせない気持ちになった…など。(ちょっと脱線するが、ここに怒りも加わるタイプの人もいると思う。自分の場合、怒りは汚泥のように沈澱してしまい、感情の揺れというよりゴミが溜まってしまう感覚なので好ましくない。)さて、それでは感情の揺れによって何を得ようとしているのか。感情の揺れが起きた時に起きることは、身体的な反応であれば涙が出る、声が出る、体を揺らす、とにかく動き回る、話す…それらが何を与えてくれるのかといえば、やはり『生』の実感ということになり、つまるところ『生きがい』なのでは?と思えてくる。

消極的な生きがい、積極的な生きがい

ここで今更ではあるが、『生きがい』という言葉を(手元には辞書がないので)コトバンクで引いてみる。世界大百科事典第2版の内容を引きながら、下記のように書かれている。

この中では、当たり前といえば当たり前なのだが、人によって、あるいは文脈によって捉えるレベル感が違うことが示されている。

〈生きていく上でのはりあい〉といった消極的な生きがいから,〈人生いかに生くべきか〉といった根源的な問いへの〈解〉としてのより積極的な生きがいに至るまで,広がりがある。
株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版

つまり、私のように感情の揺れを感じるために『推し』に触れる人も、自らがいかにして生きるべきかの解として『推し』を導き出した人も、一口には『生きがい』という言葉で括ってしまうことができるのだ。しかし、そこには大きな隔たりがある。
私はさきほど、『推し』から何を得るか、と当たり前のように書いてしまったが、そもそも『消極的な生きがい』と『積極的な生きがい』でこの出発点からして違っている。例えるなら、『消極的な生きがい』はその人の『生』とは分離して、そこから『生きがい』という補助ドリンクみたいなものを注入する。しかし、『積極的な生きがい』はその人の『生』における器官となっている。『積極的な生きがい』としての『推し』がある人にとっては、『推し』はその存在から何かを得るものではない。もうそれは体の一部であり、取り替えることは難しいのだ。
これほどの大きな差がありながら、同じ言葉で括れてしまうのが言葉の恐ろしいところで、もっと適切な言葉があるのかもしれない(あったらぜひ教えてください)が、おそらく誰もがどうしても身近にあるわかりやすい言葉として『生きがい』を使ってしまう。ゆえにニュアンスがずれた『推し≒生きがい』が対面することで、そのニュアンスの違いによる摩擦が至るところで起きているのだろう。そして、私は無意識にその摩擦を恐れた、というのが、『推し≒生きがい』への違和感の正体だったようだ。

推し=消極的生きがい

言葉のニュアンスの違いは感覚的にわかっていても、曖昧にしてしまいがちだ。ひどく遠回りではあるものの、ニュアンスの違いを明文化しながら辿ることで、改めて『推し≒生きがい』の式を自分の中に落とすことができたように今勝手に感じている。これでようやく「あなたにとっての『推し』とは?」と聞かれた際に「消極的な意味での生きがいです!」といくぶん胸を張って答えることができそうである。
結局、相手が色んな意味で怪訝な顔をすること間違いなしだが…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?