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再び火を起こす

一年前の7月、私は炎を繰り返し見つめていた。先行きの見えない日々の中で、交わす言葉の不安定な変容に炎と同じものを見た。燃え上がる火は、ただ見ているしかできない。自らが過去に放った言葉も、人が集まって起きる様々なことも。
もちろんそれをできる限りどうにかしようという努力は素晴らしいことだと思う。だが、それで壊れてしまうものもある。例えば自分自身の心とか、だれかとの関係とか。そういったものを壊さないためにも、ある程度意識的に諦めをつけることは、結果として自らを守ることだと、その時改めて思った。
思ったが、今なおそれを実行できているかはわからない。ある部分においての諦め方はうまくなったと思う。だが相変わらずコントロールのきかない部分に対して怒りがこみ上げることも多くあるし、なんだったらそういうことが気になることもまた増えてしまった気がする。

火をくべることを教えてくれた人と、久々に火を囲んだ時、その人の口からはおそらくほぼ出てきたことのない「哲学」という言葉が出てきた。何もすることがない、火を囲み、食して飲むしかない、ひたすらに暇な時間の中で、燃える炎を見つめるだけの時間は、人に普段考えない何かを考える時間を与える。唐突にちりちりと舞う火の粉のように、ぽっと浮かび上がったことを思い返し、それについて頭の中を整理する。
だが、結局はいかんともしがたいことばかりだ。思うように人は動かないし、人が考えを変えることは難しいし、やってほしいことはやらないし、やらなくていいことばかりする。必死に考えを擦り合わせ、平行線を少しでも近づけようとし、それでも結局溝は埋まらないまま、虚しさと怒りが残る。
分かっている。自分自身も柔軟性がない。こうだと思ったことを、他人の言い分を聞きながらしなやかに、でも芯を曲げずに、魅せる。そんな上手な生き方をできない。あるいは、いかにも曲げた風を装って後で無視する。そういう小賢しい生き方もできない。
きちんと結論が導き出せることを、どうしてそうやって勝手に曲げてしまうんだ?どうしてそう自分に都合よく話をすり替えられるんだ?あるいは、どうしてそのスタートラインにすら立たないんだ?
一日の大半の時間をそういった空虚な怒りにまみれながら過ごすこと。どんなに場所を変えてもこのことはきっと大きくは変わらないだろう。そう思うことで結局今の場所にあり続けている。場所を変えることを試したこともないのに。
そうではない場所にあり続けたいと思う。柔軟性がない私でも、ある程度上手に主張ができ、人の話に純粋に耳を傾け、この人たちといて楽しいと思う時間。そういう場所があることを知っている。そういう場所に、残った時間の多くを割くことができている。その事実がギリギリで気持ちを保たせる。だが、それを日常にすることは、おそらくまた違うのだろうと自分の中で自分がささやく。利害関係が薄いから。それが変わったらきっとまた違ったものになってしまう。そのことに恐怖している。

本当にふとした時に思う。今の生活でなかったら、私はいったい今どうなっていたのだろう。とうの昔に何かが破綻し、かといって逃げ出す勇気もないまま、ぐるぐると沈み込んでいったのだろう。あるいは今とさほど変わらず、何となく浮き沈みを繰り返し、適当に日々を過ごしていただけかもしれない。
今は、あらゆる希望の光がそこかしこに転がっているように見えるし、でもそれを拾った瞬間、その輝きが濁り出すことにおびえている。まだ拾う勇気は出ないらしい。だからせめて、その輝きを見られる、あるいはたまに触れることのできる位置にい続けたいと思う。拾い上げる勇気が出る時なんて、いつまでも来ないのかもしれないけれど。それでも。

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