漫画単行本の表紙絵を作者はなぜ無料で描くか
森川ジョージ先生の言及から一気に衆目を集めたこの問題、燃え広がって業界内外の人々があれこれ言い合った結果しっちゃかめっちゃかになっておりますね。多くの誤解、本質を外れた見解が広まっており、実害が発生する懸念すらありますので、ここでちゃんと説明したいと思います。
なぜ杉井がわざわざ出しゃばるのかというと、この問題、おそらく漫画家より小説家の方が問題のコアをつかみやすいと思うからです。
○結論
漫画単行本の表紙絵を作者が描くとなぜ無料なのか、結論だけ先に書くと「金をもらうという契約を出版社と結んでいないから」であって、これ以上でも以下でもないのです。
(もし金をもらって表紙絵を描くという契約を結んでいるのにもらっていない漫画家さんがいたらちゃんと訴え出てください。という当たり前のことも森川先生は言っています)
森川先生はこれを「表紙絵は作者が勝手に描いたものだから金はもらえない」というように発言していて、この「勝手に」という表現が今回の騒動の大きな要因であるのはたしかですが、森川先生の言葉の選択が悪かったとかそういう単純な話でもないのが本騒動の難しい点です。
より正確に書くなら「勝手に」ではなく「発注されたわけではないのに」でしょうが、もし森川先生がこう書いていたとしてもまあだいたい同じように炎上していたでしょう。
なぜか?
これは、大雑把にいえば、「様々な要因の複合によって、まるで漫画家は出版社から表紙絵を発注されて描いているように見えてしまうから」です。
漫画業界と出版業界の、世間一般からは理解しがたい業態がみっしりと関わった問題になってきます。
○実際に表紙絵を描くまでの過程
今回の騒動の大きな特徴は、森川先生に対して多くの本職の漫画家が怒りの声をあげていることです。「表紙絵は勝手に描いてなどいない、描けと言われたから描いているんだ」という自認があるからでしょう。
実際の漫画単行本の制作において、たしかに「作者が表紙絵を勝手に描く」という文章は実態にそぐわないものでしょう。単行本を出すとなったとき、編集者はおそらく作者に「じゃあ表紙絵ラフは○○日までにお願いします」「彩色済み完成稿は○○日までにお願いします」という感じで話を進めるはずです。
このやりとりを見れば「出版社が作者に表紙絵を依頼している」ように見えますよね。実際、たとえば小説の表紙絵をイラストレーターに発注する場合、似たようなやりとりで表紙絵が作成されてイラストレーターにはギャランティが支払われます。漫画家も、いかにも出版社から表紙絵を受注しているように見えてしまいますよね。でもこれ、出版社は漫画家に表紙絵を「お願いしている」のであって「発注している」わけではないのです。
○単行本における出版社と作者の関係
先に挙げた小説の例ですと、出版社とイラストレーターの関係は制作者と受注者です。小説単行本という商品を出版社が制作するにあたり、クォリティアップのために表紙絵という一部分をイラストレーターに発注し、イラストレーターは表紙絵を期日までに納品し、対価を受け取る。世間一般でよくある、わかりやすいビジネス関係ですね。
対して、出版社と漫画家は、単行本出版においては共同制作者です。漫画単行本という商品の、コンテンツの大部分――絵とか台詞とかコマ――を漫画家が担当し、それ以外のすべて――デザイン、印刷、製本、宣伝、流通――を出版社(と、それに依頼された関係各社)が担当し、負担したコストやリスクを鑑みて契約された分配率に基づいて売り上げを分け合う、という、普通に暮らしているとあまりお目にかかれないビジネス関係です。
だから出版社が漫画家に対して「表紙絵を描いてください」と頼むのは発注ではありません。クォリティアップのための提案です。自らもコストとリスクを負って出す商品なのだから、なるべくいいものに仕上げて売れる確率を上げたい。一緒に儲けましょう。こんなふうに一手間加えたらどうですか。という提案なのです。
そこで森川先生は言っていますね。「かけたコストに見合わないと思うのなら表紙絵は描かなくてもいい」。
この発言もまた多くの漫画家の怒りを買います。
○そうは言っても断れない
編集から表紙絵を描いてと言われて断れるわけがない、と多くの漫画家さんは言います。「描かないなら単行本は出さない」と言われるかもしれませんよね。でもこれは当たり前のことです。別に出版社が漫画家より権力を持っているとかそんな話ではありません。両者は共同制作者です。両者の完全合意がなければ出版はできません。出版社には「このコンテンツでは売れそうにないから出版はやめる」という権利があります。(同じように作者側にもやめる権利はあります)
繰り返しますが、漫画家が漫画単行本の表紙絵を描くのは、共同制作者たる出版社に、「このコンテンツはコストとリスクをかけるだけの価値がある」と認めさせるためのコンテンツ磨きの一環です。断りづらい、断ったら出版してもらえないかもしれない、というのは当たり前の話です。断れるのはすでに売れている大御所だけ、というのもやはり当たり前のことです(売れる公算が大きい漫画なら、表紙絵がないのを理由に出版をやめる方が損ですからね)。
○誤解を助長する雑誌掲載という業態
ここまでを読んで、なおもやもやが残る、という漫画家さんは少なくないと思います。
実は、小説家にとっては、ここまで長々と書いてきたことは全部当然の話です。たとえば小説単行本を出すとき、編集者に「描写が足りないのでワンシーン足してください」「もうちょっと余韻がほしいからエピローグつけましょう」「あとがきお願いします」といわれたら、「言われた通りに書く」か「その価値はないと判断して書きませんと言う」か「言われなかったことまで書く」の三択です。
「言われて書いたんだからギャラを払ってください」と言い出す小説家はまずいません(皆無、とは断言できませんが)。
現代の市場に出回る小説はほとんどが書き下ろしです。小説家の収入の大部分は印税です。小説家は出版社を相手に商売をして対価をもらっているわけではないのです。出版社を共同制作者として、読者を相手に商売している、という構図が非常にわかりやすく、出版社側から小説に関してなにか要望を出されたときにそれを「発注された」と認識することがないのです。
ところが漫画家は、出版社を相手に商売している受注者であるという側面がまぎれもなく存在します。雑誌掲載ですね。
漫画雑誌は100%、出版社の制作物です。掲載作品は漫画家に発注し、原稿料という対価を支払って載せるものです。だから漫画家は自分が描いた原稿以外の部分に口出しする権利はないし、雑誌がいくら売れようと売れなかろうと支払いに変化はありません。これは小説の表紙絵を依頼されたイラストレーターとまったく同じです。
だからいっそう誤解が生まれやすい。
単行本作業のとき編集者が「じゃあ表紙絵よろしく」と言ってきたら、出版社からの発注のように見えてしまう。
これは雑誌掲載と単行本出版という二つの違うビジネス関係を出版社との間に並立させることが多い漫画家特有の誤解ではないかと思います。
○単行本と雑誌掲載の原稿料は関係ない
単行本のために作者が提供した表紙絵に対価が支払われないのはおかしい、と憤っている人はたくさんいますが、単行本に収録される漫画本編に対価が支払われないのはおかしいと憤っている人は一人もいません。おそらく、支払われているように見えるからでしょう。雑誌掲載の原稿料という形で、です。
でもあの原稿料というのはあくまで「その雑誌のその号に掲載してもいい」という許諾への対価です。もし出版社がたとえば別のメディアに改めて掲載したいとなったら改めて契約が必要ですし原稿料もまた支払うでしょう。
だから単行本において、表紙絵も漫画本編も、出版社から漫画家に対価が支払われていないという点では同列です。二重のビジネス関係のせいで、あたかも表紙絵に対してだけ支払われていないように見えてしまうだけで、実際はどちらにも支払われていないのです。
これはもちろん「だから表紙絵に関してだけではなく本編に関しても怒りの声をあげろ!」という話ではありません。
雑誌掲載は漫画家が出版社に漫画を売るビジネス、単行本は漫画家が出版社と一緒に読者に漫画を売るビジネス。二つの業態を多くの漫画家が並立させている上に、その両者で売っているコンテンツの大部分が同じものという点が、この問題を複雑化させた最も大きな要因と言えるでしょう。
○実害が生まれる可能性
最後に気をつけておかなければいけないのは、実際に単行本の表紙絵に対価を払う契約もあり得るという点です。森川先生への本職の漫画家さんからのリプライにも実例証言が多く挙げられています。
この解説記事を書いた最大の理由は、本騒動に関する誤解が広まった結果、実害が発生する可能性があるからです。
つまり、表紙絵に対価を支払う契約が素晴らしく、支払わない契約は悪であるという誤解が広まって漫画家さんが損をする可能性です。
言うまでもなく、いちばん大事なのは実際いくらもらえるかです。
たとえば、
・表紙絵ギャラ20万円 印税率8%
・表紙絵ノーギャラ 印税率10%
この二つの契約は定価700円の単行本で計算すると発行部数が1万5千部を超えたあたりから後者の方が得になりますが、もし漫画家さんが「表紙絵への対価は絶対もらわねば」という考え方を持っていた場合後者の選択肢が消えてしまいます。
表紙絵を描く、描かない、描くからにはギャラをもらう、もらわなくても描く、俺は印税12%の上に表紙絵ギャラももらう超大御所を目指すぜ、など、それぞれの漫画家さんが自身の状況を考えて自身で決め、場合によっては出版社と交渉するのも手でしょうが、ともかく表紙絵に出版社からギャラが支払われるかどうかは本質ではないということは頭の隅に留め置いていただきたい、そしてこれからも健やかに素晴らしい漫画作品をたくさん描かれますように、と願います。