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ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第5話感想〜言葉を捨てずに語るならば~

前回までの…

 ドラマ「スターウォーズ:アソーカ」の感想を次の話が配信するまでに一話ずつ書いていく。前回の記事はこちら。

第4話の記事を書いた際に「特に書くのを迷う回」と書いたがそんなレベルをはるかに超えて第5話をぶつけられてしまった。
 あの頃は覚悟が足りなかった…。

語彙力を破壊した第5話

 第5話以後、私は言葉を捨てようかと悩んだ。
 書けませんと。こんなのは言葉にできませんと。
 第5話は………ほら………あの…………………致死量を超えて、もう生きるしかない(!)情報量で殴られてしまった。私は生きているのか?死んでいるのか?

 もう、これはさあ…ほら、もうね?感謝?感謝????感動???感涙????なんて言えばいいの?この胸のざわざわを、ずっと泣きたくている気持ちを、私はどうすればいいの?

第5話を観た直後に描いた絵 混乱が伝わってくる

 …気を取り直して、私の過去の話をしたい。私は幼い頃作文を書くのが嫌だった。題材を選ぶのも、長い文章を書くのもすこぶる苦手だった。そういう人間が一回でも思いつくことがある。

通称・書くのを迷ってた自分を書いて文字数を稼ぐ法 である。

 例えば、「私はこの作文をどう書こうか迷ってます。なぜなら〇〇だからです」とか適当に迷ってることでひたすら文字数を埋めて、締めには「そんなことを書いてるうちに書けました」と書いてしまう。そうして苦し紛れに埋められない原稿用紙を埋めていくのだ。

 正直、こういった方法はナンセンスだと思っている。自分の悩みなどどこ吹く風で、水面下ではバタバタ足を動かしてもスイスイと泳ぐ白鳥のように文章を紡ぎ出していた方がかっこいい。

 ただ、特にこの第5話に関しては、ナンセンスな方法を使うことを許してほしい。そして、自分の今の迷いを語ることこそが、語彙力を破壊しつくした第5話を語る唯一の方法だと今は思っている。やばい!というだけでは足りないのだ。自分を極度に形容してウケを狙おうとするのでもなく、語らないという方法を選ぶわけでもない。

 今の、この気持ちを、なんとか、たとえ陳腐になったとしても残しておくことが、第5話を見た私に必要なことだと思う。
だって我々は今を生きているのだから。

アニメ見なくていいって言えるか自信ない

 第1・2話感想でアニメは見なくていい!工夫が散りばめられている!とは言ったものの…第4話もまあ怪しかったが、第5話見るともう…。

 私はアニメ見なくていいとは正直言えない。自信がない。

 もう、今すぐアニメを見ていない人に劇場版「クローン・ウォーズ」からゆっくりとでいいので見てドラマ「アソーカ」を楽しんでほしいと思う。もちろん、「アソーカ」から見て「クローン・ウォーズ」を見るというのも、とっても楽しい選択なのではないかと思うので、やってみた人に感想を聞いてみたい。

 そして世界の「クローン・ウォーズ」・「反乱者たち」たちファンの皆さんは、今頃どうなっているのだろうか。私は次の日現実の生活が送れるか全く自信がなくなりました。(なんとか生活しました)

 視聴翌日はずっと衝撃過ぎて突発的に涙が出そうになった。自転車をこいでいると思わずハンドルを強く握りしめてしまった。最強の師弟の果てを見てしまったという思いでいっぱいになった。

 翌々日には、「好きな作品の続きでこれだけのものに出会えるのは人生で何回あるのだろう」と考え始めた。私は海外のツイート(ポストではない)をちょこちょこ見るのが好きなのだが、「今、ファンでよかった」という人が何人かいて非常に共感できた。本当に今、スター・ウォーズと出会えてよかったと思っている。正直、映画公開してる頃にハマってみたかった気持ちもあるのだけれど、自信をもって言いたい。
 今、ファンでよかった!!!!!

この面白さは数学を勉強する時と同じ

 私は、デイブ・フィローニというのは「積み重ね」で面白さを作り出すところが彼の作品の魅力だと思っている。逆にいうと、一発目には弱いとも言えるのだが…。正直、ドラマ「アソーカ」より、ドラマ「マンダロリアン」の方が一話としてのかっこよさや引き付け力はあると思う。新規に優しいのはどう考えても「マンダロリアン」だろう。(シーズン2以降どうかと言われると自信がなくなってくる)

 今、私が感じている面白さというのは、数学を勉強する時に似ている。数学というのは、積み重ねがあってこそ理解できるものだと思う。算数がないと、数学というのは始まらないだろう。分数の計算が分からなくては、方程式で分数が出てきた時に全く太刀打ちできない。数学の勉強ができない自分がいっても説得力はないのだが、前の単元に習った積み重ねを理解していかないと一発逆転で理解するのが難しいのが数学という教科だと思う。

 同じように、ドラマ「アソーカ」の土台となる面白さは、何よりもその積み重ねにあると思う。「クローン・ウォーズ」、「反乱者たち」、「テイルズ・オブ・ジェダイ」などを土台にして、ドラマ「アソーカ」の面白さは最大限に引き出せるものとなっている。部分的に見て分かるものでもないと思うからこそ、「アニメを全部観てほしい」と言ってしまう。意地悪で言っているのではなく、かなり本気で思っている。ハードルが高いのも分かって言ってる。

 そしてアソーカ・タノというキャラクターの魅力の一つにも積み重ねがあると思う。アソーカというキャラはこれまでの作品で、生まれた頃から今までの人生ほとんどを描かれてきたキャラクターだ。正直な話、私はドラマ開始前は「この作品はアソーカ・タノの死を描くのでは?」と考えていた。ゆりかごの頃から全てを描いてきて、「アソーカ」なんて名前を冠された作品が出たらそれは墓場を描いてしまうのではないかと思った。(エピソード9のこともあるし…)しかもテーマは師弟関係である。極めつけにもほどがある。

 しかし、ドラマはアソーカが「生きる」を選択する物語だった。
 これが、2008年から描かれてきたアソーカ・タノの15年目の総決算…!
 (まだ3話あるので分からないのが怖いところ)

 アソーカが「生きる」を選択することの美しさもまた、「積み重ね」の上に立っている。我々はいつも巨人の肩に立っている。

 デイブ・フィローニ作品はやはり「積み重ね」で面白い。私は気づけばもうこの沼の出口を忘れてしまった。最初はひょんな気持ちだった。「「クローン・ウォーズ」、長すぎ笑!」とか言ってた頃が懐かしい。

こんなことになるなんて誰が予想したのか。
みんな、沼の底で会おう。舞台で待ってる。

「砂」のように掴みづらい第5話

 第5話というのは、シンプルなのだが複雑である。アソーカが「世界の狭間の世界」で師匠アナキンと会い、過去と向き合い答えを見つける話と書いてみるとなんともシンプルだ。

 だが、よく分からない部分もある。なぜアナキンは「生きるか、死ぬか」を問うのか?中盤のアソーカの解はなぜ「不正解」なのか?なぜ救助された後のアソーカの衣装は白くなるのか?この部分をどう捉えるか、人によって色々な考えがあるだろう。自分なりの考えを私も述べるが、悩んでいる部分も大きい。というか、情報が大きすぎてそちらに目が行ってしまい、なかなか考えられない。衝撃の消化に本当に時間がかかっている。私が衝撃を感じた部分の話をしながらも、私なりに疑問を考えていきたい。

アソーカ・タノの人生一番の後悔について

 アソーカの人生一番の後悔はアナキンの元を訓練を終える前に去ってしまい、アナキンのそばにいられなかったことだと思う。少なくとも私はそう思う。ドラマ第1話での、ヘラとの会話にこんな部分がある。

アソーカ「私は訓練を終えられなかったの。戦争が終わる頃、アナキンから離れた。ジェダイからも。そしてサビーヌの元からも。」
ヘラ「理由があってのことでしょ。」
アソーカ「理由は正しくても、間違った結果を招くことがある。その場合どうするか。」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第1話「師と弟子」

 このセリフでは訓練を終えられなかったこと、自分がアナキンやジェダイ評議会から離れる選択をしたことを「間違った結果を招くことがある」と形容している。

 「クローン・ウォーズ」を見ていれば、アナキンから離れたことはヘラの言う通り「理由があって」のことで、いろんな意味でむしろ間違った選択でもないことだと分かる。ただ、それが正しい理由だったとしても、アソーカの中には後悔が残っているように見える。

 例えば、訓練を最後まで終えられなかった自分はジェダイとして足りない存在なのではないか?と思う部分があるのではないか。また、途中で離れてしまった自分に弟子を教えられるのであろうか?という迷いもあったのではないか。そして、アナキンからも、ジェダイからも、サビーヌからも全て離れてしまったという選択を後悔しているのではないか。

 それを踏まえて、「世界の狭間の世界」で邂逅を果たしたアソーカとアナキンの会話を聞くと重い。

アナキン「お前の訓練を終えに来た」
アソーカ「それじゃもう遅い」
アナキン「学ぶのに遅すぎるってことはないんだぞ」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 「お前の訓練を終えに来た」ですよ。アソーカ・タノ人生一番の後悔をこんな形で晴らしにくると一体誰が思ったのか。そもそも、アナキン・スカイウォーカーはこの時点でとっくに死んでいる。もう会えないことは必至なのだ。だから、アソーカの後悔というのは一生晴らせないものである。普通は。普通はそうなんですよ。うーん、これだから型破りなジェダイは…。というかデイブ・フィローニっていうのは…。

アソーカ「わかった。で何を学ぶの?マスター?」
アナキン「生きるか、死ぬか。」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 生か死かを問いかけるアナキン・スカイウォーカーがライトセーバーを起動し、青い一筋の光が浮かび上がる。

 この時点でファンは一回死ぬ。(生きて!)
 私は青いライトセーバーを起動させるアナキン・スカイウォーカーを見たかった。もう一度。見たかったのだ。それが見れた。

 そして、二人は戦いはじめる。こんなに戦ってくれて報われると思う戦いもそうそうない。二人が対立しているから戦うのではなく、師が弟子に何かを伝えるために戦っているのだから。本当はずっとこれが見たかった。私はこれを待っていたのだ。自分でも意識していなかった奥底から、ストーリーを伴って見たかったシーンを見せられている心の躍動たるや!!

幕間 ジェイセンとヘラと潮騒と光の音

  第5話は、ジェイセンがいい役割を担っている。ジェイセンがヘラに海に対して何かおかしいと主張する。

ヘラ「何を聞くの?」
ジェイセン「聞こえない?」
ヘラ「波が打ち寄せる音?」
ジェイセン「違う、ライトセーバーだよ」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 我々も一緒に波の音に耳を澄ませる…。波の音だ…。…ん?何か聞こえる。聞いたことがある音。そう、ライトセーバーのぶつかる音が。

 波とライトセーバーを重ね合わせるという表現はあまりにも良すぎないか???ありそうでなかった最高のマリアージュである。ヘラはこれをきっかけに海を再探索することを決める。

 そしてマンダロリアンにも出てきたカーソンが「どういうことなんだ?」と困惑している中、ヒュイヤンは「ジェイセンには能力はあってね。父親のケイナン・ジャラスがジェダイだった」と話す。「父親のケイナン・ジャラス」「父親のケイナン…」何度言っても良いセリフ。はい。ここもう一回書いておきたい。父親のケイナン・ジャラス!!!!!!

 「反乱者たち」だと、あえて父親の名前は言わないで「わかるよね?」という形で締めたので(これはこれで最高)、はっきりと「父親」と明言することにファンは慣れていない。少なくとも映像作品ではそう。はあ…父親のケイナン・ジャラス…。

「世界の狭間の世界」を改めて振り返ろう

 アソーカとアナキンが再会している場所は「世界の狭間の世界」である。「反乱者たち」シーズン4の13話「世界の狭間の世界」ではこんな風に言われている。

サビーヌ「あの入り口は、単に寺院の入る扉ってだけじゃない…あれは」
ハイダン「全ての時と空間を繋ぐ通り道。それを支配するものが宇宙を支配するのだ」

アニメ「反乱者たち」シーズン4 13話「世界の狭間の世界」

 私はここから、「世界の狭間の世界」とは「過去・現在・未来」が同じ空間に存在する場所、という理解をしている。

 だからこそ、第4話でアソーカがアナキンと再会した時に一つの疑問を感じていた。「あれは、どの時代のアナキンなのだろうか」と。

 衣装は黒く、「クローン・ウォーズ」シーズン7あたりに近いように感じる。「こんなに早く会えるとはな」というセリフも気がかりだ。そうなるとエピソード3直前?ということなのか。不穏にもダース・ベイダーのテーマがちらっと流れるのも心をざわつかせる。だが、歳を重ねたアソーカをアソーカであると自然と認識しているので、やはりエピソード6以後の全てを乗り越えたアナキン・スカイウォーカーと考えないと辻褄が合わない。ストーリー的にも、何かを伝えるために来たわけだろうし…。一体いつなのか?

 そんなオタクの必死の考察をせせら笑うように、デイブ・フィローニは「全てのアナキン・スカイウォーカー」という概念をぶちこんできた。さらにいうと「全てのアナキン・スカイウォーカー」に「全てのアソーカ・タノ」をぶつけて第5話を視聴者にお見せしてきたのだ。誰か止めてくれ。いや、止まらないでくれ、このままでいさせてくれ…。

 まず、思い出してほしい、アソーカとアナキンはどこで邂逅を果たしたか?「世界の狭間の世界」である。もうこの時点で、「いつ」というのは意味がないのだ。あれは過去であり現在であり未来。全ての時と空間が繋がれている。だから「いつ」でもあるし「どこ」でもある。

 だから何が起こってもおかしくない。
 そう、クローン戦争が始まってもおかしくないのだ。

「クローン・ウォーズ」スペシャルシーズン

  アナキンとアソーカがなんともいい感じで戦い、どことなくアナキンが満足そうにしているという画を見せられて悶絶している視聴者をさらに怒涛の展開が襲う。

「クローン・ウォーズ」が始まっちゃったのだ。

 ドラマ「アソーカ」を見ていたら、突然アナキンが床を切り始めてアソーカが落ちたかと思ったらなんと若返り、クローン戦争の時代に来てしまった。私は吹き替え派なので、アソーカ役の伊藤静さんの若いアソーカの声の変化のつけ方にさすがプロ…と思った。

アナキン「ついて来いよ!」
アソーカ「訓練はどうすんの?」
アナキン「これが訓練だ!」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 第3話のサビーヌとアソーカの戦闘シーンでも似たようなセリフを聞いたような。過去に入り、戦い始めることが一体どう訓練になるのか。この時点では全く分からない。

 場面は変わり、兵士たちが倒れ、治療を受けている。アソーカは一人の兵士の手を握り、アナキンに話しはじめる。

アソーカ「兵士がたくさん死んだ」
アナキン「何にでも代償はつきものだ」
アソーカ「私のせいだよ。みんな私に従った。私が殺したの」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 実は「クローン・ウォーズ」ではなかなかこんなしっとりしたことをいうことは少ない。バンバン死んでくクローンたちとドロイドたちの中で作戦を遂行していく姿の方が個人的には印象的である。しいて言うならば、シーズン1の19話「ライロスの嵐」か。遠くにトワイレック人も見えるのでもしかしたら今回の場所はライロスでの戦いを再構成したのものなのだろうか?現実だとアナキンたちは陸上ではなく宇宙でめちゃくちゃやってたけど。

「兵士がたくさん死んだ」というアソーカのセリフは、クローン戦争の末路を知っているアソーカが喋っているセリフなのか?とも思わせる。例えば小説「スター・ウォーズ アソーカ」でも帝国樹立直後の失意のアソーカはこんなことを言っている。

「私にはもう人に命令を下すことなんてできない」彼女は首を横に振って言った。「もう、死にに行くように命じるなんて無理。そんなことはもうたくさん」

小説「スター・ウォーズ アソーカ 下」p119

 私としては、今回のドラマのアソーカのセリフは小説でのアソーカのセリフをも混じったような気持ちにさせる。過去なのか今なのか未来なのか会話の中ですらだんだん分からなくなってくる。
 そして、「生きるか、死ぬか?」を問う訓練の意味を考える上ではこのあたりの会話は外せないだろう。

アソーカ「私はこのために訓練したんじゃない」
アナキン「役割は状況によって変わる。僕がオビ=ワンについた時、ジェダイは平和の守護者だった。でも今は、戦争に勝つには、兵士になる必要がある」
アソーカ「じゃあ、私もいつかパダワンにそう教えるの?どう戦うか?」
アナキン「弟子を取りたいのか?教えるのは思うほどいいもんじゃない」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 これは、ベイラン・スコールに「君は結局のところ、戦うことしか知らない」と言われた上でのアソーカの発言のようにも聞こえてくる。もしかしたら過去に本当に言ったのかもしれないし、言ってないのかもしれない。

アソーカ「私たち…ジェダイは本来平和の守護者で、戦士ではないはず。なのにパダワンになってからは、戦いの連続だった」

アニメ「スターウォーズ/クローン・ウォーズ」シーズン7 第11話「崩壊」

 アソーカはクローン戦争終盤、オーダー66発令直前(!)にこんなことを言っている。平和の守護者であったはずのジェダイが兵士として戦う矛盾をこうやって最後の最後にアソーカの言葉として聞けたのは、初めてであり、印象に残っているシーンだ。 
 そんなアソーカに対し、「役割は状況によって変わる」とアナキンは答える。そして、生きること、戦うことを説く。戦わなければ死ぬ。それが戦場だからだ。

アナキン「僕は導く方法を教えてるんだ。生き残る方法を。そうするには戦わなきゃいけない」
アソーカ「戦うのをやめたくなったら?」
アナキン「死が待ってる」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 アナキンはアソーカに対して、とにかく戦い方を、生き抜き方を教えてきた。「スターウォーズ:テイルズ・オブ・ジェダイ」第5話「継続は力なり」でも無茶とも思える訓練をアソーカに繰り返しやり続ける。

アナキン「いいか、きついのは分かっている。だがそこを乗り越えないと、これには生きるか死ぬかがかかっているんだ。僕にはマスターとしての責任がある。お前を守るには自分で自分を守れるようになるのが一番だ」

アニメ「スターウォーズ:テイルズ・オブ・ジェダイ」第5話「継続は力なり」

 そして恐ろしいことに、この訓練がオーダー66を生き抜くための術へとつながってしまう。アソーカ・タノを生かしたのは、紛れもなくアナキン・スカイウォーカーの教えなのだ。

 だが、アナキンにはもう一つの側面がある。アナキン・スカイウォーカーの人生の先には何が待っていたか?人々に何をもたらしたか?
 破壊と死。ダース・ベイダーである。

教えの先にあるのは死?…不正解。

 「世界の狭間の世界」の中でも時が進んだようである。かつての緑のライトセーバーではなく青い二本のライトセーバーを軽やかに使いこなし、少し成長したアソーカ。場所はマンダロア包囲戦である。この時、本当はもうアナキンはいない。コルサントで議長を助け出している頃だろう。

 ちなみにここで我らがキャプテンレックスもちゃっかり喋っている。これが見たかった…。

この部分の二人の会話も意味深である。二人が腕を組み同じポーズで立っているのもアソーカの成長を感じさせる。

アナキン「よくやった。戦士に育ったな。訓練の成果だ。」
アソーカ「これで終わり?」
アナキン「アソーカ、お前の中には僕の全て、僕の有する知識が…マスターを通じて代々受け継いできた遺産だ。お前もそれを受け継いだ。」
アソーカ「でもそれって死をもたらすんじゃない?戦争を…。」
アナキン「いやそれ以上だ。僕がそうであるように」
アソーカ「「アナキン」はそうね。強くて危険な人。皆が思っていた以上にずっと…」
アナキン「何が言いたいんだ?」
アソーカ「私もマスターと同じなら…」
アナキン「やはり学んでない」
アソーカ「馬鹿言わないで」
アナキン「やり直しだ。選ばせてやったろ?生きるか…死ぬか」
アソーカ「…嫌」
アナキン「不正解」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 もう一度生か死かを問いかけるアナキン・スカイウォーカーがライトセーバーを起動し、赤い一筋の光が浮かび上がる。

 この時点でファンはもう一度死ぬ。(生きて!)
 私は青い光も赤い光も全て含んでのアナキン・スカイウォーカーだったことを再認識させられてしまった。

 正直な話、この会話について「アソーカってこんなことあんまり言わなさそうなのにな」と私は思った。だって既にフルクラムとして反乱軍と共に戦い、全然違う道を歩んでいるわけで、師とは違う道を歩んだ存在ではないのか?

 ただ、第4話のベイランが「君のマスターが、そうであったように君もいずれ死と破壊をもたらす。」という言葉にアソーカは妙に感情的に反応していた。あれは、アソーカ自身もずっと同じことを悩んでいたからこそ、感情的になっていたのではないか?と考えると整合性がついてくる。

師はアソーカに生をもたらした、だが、アソーカが守りたかった多くの人々に死をもたらしたのも師である。この矛盾をどうするか。

 ヒュイヤンはアナキンを「激しかった(Intense.)」と形容する。アソーカもまた「強くて危険な人」と形容する。激しく、危険で、死をもたらす存在。それもまたアナキンである。でも、アソーカの中にはアナキンの教えが今もなお息づいている。ここの葛藤というのは、弟子だからこその葛藤でもあると思う。アナキンの師であるオビ=ワンの葛藤とも種類が違う葛藤だろう。

 結局、アナキンはここで何が言いたいのか。私は、アソーカを兵士として育てた教えは、ただの兵士としての教えではなく、ジェダイの連綿とした遺産の一部をしっかりと受け継いでいることを伝えたいのではないだろうかと考えている。クローン戦争のパダワンとして生きたアソーカは兵士として生き抜くことを教えられた。「役割は状況によって変わる」ので、時代が違えばアソーカは平和の守護者としての教えを受けていたのかもしれない。でも、たとえ育て方が違ったとしても、それは「ジェダイの教え」であることは変わりがない。アナキンの全てを、そして過去のジェダイからの遺産をアソーカがしっかりと受け継いでいることをアナキンは明言している。

 ということは、実はアソーカは既に学んでいる存在だ。だが、彼女はまだそれに気づいていない。自分の学びがいつか破壊と死をもたらすのではないかと悩んでいる。だから、「学んでいない」「不正解」となるのだ。

 でも、なぜアソーカが遺産を受け継いでいると言えるのか。兵士として生き抜くこともまた、ジェダイの教えであるとなぜ言えるのか。実は私の中ではいまだに納得感がない部分でもある。今後の課題としておきたい。

「生きる」という返答を考える

 戦っているうちにマンダロア包囲戦から「世界の狭間の世界」に戻り、ふたたび白いライトセーバーを二本携える現在のアソーカに戻る。緑も青も白も全部見せてきたなこれ。

 声も、姿もダース・ベイダーと重なっているアナキンがアソーカを追い詰め、ついにライトセーバーを二本とも失う。「死ぬ時が来た」ととどめを刺そうとするアナキンに対しアソーカは形勢を逆転させ、アナキンのライトセーバーを突き付ける。赤いセーバーの光でアソーカの瞳が一瞬赤くなったかと思いきや、セーバーを捨て、こう話す。

アソーカ「私は生きることを選ぶ」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 それを聞いたアナキンはどことなく悲しげな顔をし、目をつぶり、いつもの笑い方でこう話す。

アナキン「まだ希望はあるな」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 そして世界はゆっくりと閉じられ、アソーカは現実へと戻っていく…。

 これが本当に最後のアナキンとアソーカの会話である。これをどう読み解いていくか?難しいのだ…。

 私は、二つの方法で「生きる」の返答を考えてみたいと思う。一つは、「反乱者たち」のベイダーとアソーカの会話の返答として考えてみること。もう一つは、救出後のアソーカの会話からアナキンに何を学んだかを考えてみることだ。

最期の会話だったはずの「反乱者たち」

 「反乱者たち」シーズン2の最終話「シスの秘密 パート2」がアソーカとダース・ベイダー(アナキン)がこれまでの二人の最後で最期の会話だった。

ダース・ベイダー「アソーカ。……アソーカ」(仮面が一部外れ、まぎれもなくアナキンの目と声で呼びかける)
アソーカ「アナキン…。あなたを置いてはいかない。今度こそね」
ダース・ベイダー「…では死ぬしかない」

アニメ「スター・ウォーズ 反乱者たち」22話「シスの秘密 パート2」

 私はこの、「では死ぬしかない」の返答として、今回のアソーカのセリフ「私は生きることを選ぶ」は存在するのではないか?と考えた。

 これまでは、アナキンとアソーカの最期の会話というのは、生を伝えてくれたマスターからの「死ぬしかない」というセリフで終えられていた。だが、ドラマ「アソーカ」第5話はこの場面に対して、意味の塗り替えを行ったのではないだろうか?「死」を促したダース・ベイダーをも含めたアナキン・スカイウォーカーが「生きるか、死ぬか」をアソーカに問い、アソーカが「私は生きることを選ぶ」と返答する。

 それってすごく意味のあることだと私は思うのである。決裂ではなく、師からの最後の訓練として出会い、別れられたということは、今後のアソーカにとって大きな糧となるのではないか?

 実は、アソーカがアナキンに何を学んだかはこの時点ではよく分からないものだと私は思う。アソーカが受けた教えを伝えなければならない人が彼女にはいるはずだ。そう、サビーヌ・レンである。

 サビーヌ・レンと再会した時、アソーカがサビーヌに何を伝えるのか?が分からないと、何を学んだかは分からない。弟子が師匠から学んだ教えを、師匠となった弟子は自分の弟子に何と伝えるのであろうか?そこが今後の展開で描かれるべきものであるし、肝であると思う。

白くなったアソーカの会話からちょっと考えてみよう

 それはそれとして、「世界の狭間の世界」でのアナキンの教えを受けたアソーカは何が変わったのか?少し考えてみたい。

 ビジュアルとしてはっきりと衣装が白く変わっており、アソーカの変化の表れを顕著に表現している。「反乱者たち」最終話の白アソーカを第2話で再現しなかったのはどう考えてもこの変化をつけたかったからなのだろう。

 アソーカは、サビーヌを追うため、「パーギルと話して別の銀河に連れてってもらう」という意味の分からない方法を選択する。正直ちょっと予想はついてたけど…。いよいよパーギルの力を借りて旅立とうとする時、ヒュイヤンとのこんな会話がある。

ヒュイヤン「彼らはサビーヌの居場所を知っているのか?」
アソーカ「さあ、分からない」
ヒュイヤン「な?!」
アソーカ「分からない。任せるしかないわ」
ヒュイヤン「それじゃあ、どこにいくかも分からない」
アソーカ「そうね。でもどこにも行けないよりはまし」

ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

  このアソーカは、どこか今の選択すらも楽しんでいるかのようなところがあって、突拍子もないことを言ってる時のアナキンみたいだ。

 戦争を止めないとという思いをひしひしと感じていたこれまでのアソーカとも違うアソーカがそこにはあった。

 そして、私は「どこにも行けないよりはまし」というセリフがかなり気になった。「どこにも行けない」ってどういう状態なのか。それは、死ではないのだろうか?「生きる」を選択したアソーカに「希望はある」とアナキンが返答したのは、「希望」を生み出せるのも「生きる」人々だからではないだろうか?

 それは、もうすでに死んでいるアナキンにはできない。だから悲しい。
 でも、アソーカ・タノはまだ生きている。生きているから、希望を生み出せる。

 どこかは分からないがどこかに行けるという希望で、旅が再び動き出す。
 そして、ヘラと離れることになるアソーカはここで約束をする。

アソーカ「必ず見つける。約束する(Hera,I’ll find them.I promise.)」
ヘラ「フォースと共にあらんことを(May the force be with you.)」

 ドラマ「スター・ウォーズ:アソーカ」第4話「影武者」

 Themはエズラとサビーヌのことで間違いないだろう。それを、スペクターズの一員であるヘラに対して「約束する」ことをアソーカは行っている。
 これまでのアソーカならば、戦争を止めるためならばエズラを救うということを諦めなけらばならないと考えており、こうやってヘラに対して約束することはできなかっただろう。

 でも、白くなったアソーカはヘラと約束をした。そして、その約束は「世界の狭間の世界」でしたエズラとの約束を守ることでもある。

エズラ「戻ってきたら、俺を探しに来て」
アソーカ「必ず。約束する。」

アニメ「反乱者たち」シーズン4 13話「世界の狭間の世界」

 もう一度約束が紡がれる。そうしてハイパースペースが始まり、ドラマ第2話と同じくカメラがゆっくりと回り星を映し出す。まるで運命の歯車が再び動き始めたかのように。

 やっぱりここで約束ができたアソーカはちゃんと吹っ切れているところがあると思う。このアソーカならば、サビーヌに何を伝えてくれるのか?というのは非常に気になるところである。師弟関係の果てのその先はまだ始まったばかりである。

第5話感想を終えて

 第5話感想は本当に難産だった。言葉を捨てずに苦闘した結果がこれである。語ることには、常に迷いが付きまとっている。まだまだ「生きるか?死ぬか?」という問いに答えられていない。

 一方で、今の自分の気持ちをちゃんと残しておくことの意味や、毎週感想を書くことで培えるものもあると思っている。初めて見た時の、あの何とも言えずにいるもどかしい気持ちを、私はいつか忘れるだろう。だが、書いたものは残り続ける。

 私としてはもう少し要点を絞った感想にしたいという気持ちもある。長けりゃいいってもんでもない。削れる部分もあるだろう。

 正直、これでも語りたいことはいっぱいある。少女アソーカの頭身がアニメ完全再現で感動したとかはどこにも入れられなかったので供養させてほしい。

 ドラマもあと三話となり、短くなったものだなあと思い大変悲しい。でも、まだ三話ある。まだ希望はある。話はまだまだ終わってませんからね!

 それでは、水曜日を楽しみにしています。フォースと共にあらんことを。

サポートしていただけると嬉しいです! 美味しいもの食べてまた何か書くと思います!