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アフリカの女性たちに魅せられて ~起業6年目のかご屋代表~

こんにちは!㈱アンバーアワー 創業者・ブランドマネージャーの岡本ひかるです。

2014年からアフリカ・ケニアの女性たちとモノづくりをしていて、彼女たちと創る天然素材のかご専門店ORIKAGOというブランドを経営しています。

創業してからまだ5年しか経っていない小さな会社ですが、これまでの喜怒哀楽溢れる軌跡や短い間で培ってきた知識をnoteを通じて共有したいと思っています!

たくさんの方に読んでいただきたいですが、特に:

 ・起業している方、起業に興味のある方
 ・アフリカや途上国ビジネスに興味のある方
 ・仕事や私生活で新しい分野に挑戦しようと考えている方

にとって少しでも参考になるよう意識して書いていこうと思います!

疑問だらけの履歴書

まずは自己紹介もかねて、私の経歴をご紹介します。

1984      香港で生まれる
1987 - 2002   フィリピン・マニラで育つ
2002 - 2006   米アマースト大学 政治学部 卒業
2006 - 2009   東京で外資系の金融情報会社に就職。オンラインCS部に配属
2009 - 2011     米シカゴ大学 ハリス・スクール公共政策大学院 修了
2012 - 2014  青年海外協力隊員としてアフリカ・ガーナのNGOに派遣
2014 -           仲間と共に会社を設立

このプロフィールを見て、色々と疑問に思われるもしれません。
 ・国籍は?なんでこんなに海外滞在期間が長いの?
 ・政治→金融→政策→NGOって何をしたかったの?
 ・この経歴でなんで「かご専門店」を?
など等。仕事でもプライベートでもよく質問攻めに合います。

簡単にご説明すると、父の仕事の都合で生まれたときから海外に駐在していて、22歳になるまで海外で暮らしていました。因みに日本語と英語、どちらもネイティブスピーカーです。

中学生の時に学校行事で参加した模擬国連(MUN)で国際関係の仕事に就くことを決めたものの、大学卒業時に国際機関に入って自分に何ができるのか見えなくなってしまいました。

全く違う世界を経験したいと思い金融業界に飛び込んだ後に再び夢を持って大学院に進学。

更に、現場経験を積むために初めて向かったアフリカでの様々な出会いから、起業することを決めました

サクッと書いていますが、貧富の差が激しいフィリピンで暮らしたこと、インターナショナルスクールで多国籍の友人たちと共に育ったこと、それまで視野に入れていなかった金融の世界を垣間見れたこと。

これまで経験してきた様々なことが今につながり、活かされていると感じています。

初めて訪れたアフリカ

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2012年3月、私は青年海外協力隊の「プログラムオフィサー」(←バックオフィスのお手伝いをするような職種で、プログラミングとは関係ありません)としてガーナの田舎町に派遣されました。

配属先は20年も続いている現地のベテランNGOで、カリスマ性溢れる男性リーダーのもと、水道の普及に環境保護、女性のエンパワーメントと様々な分野のプロジェクトが行われていました。

地域や部族によっては根強い男尊女卑が残る中、このNGOでは幹部の多くは女性で、授乳しながら堂々とミーティングをこなし、バイクで山奥の村を訪問した後に子供を迎えに行ったりと、とにかく精力的に活き活きと働いていました。

特に印象に残っているシーンがあります。ある日、オフィスに向かったときのこと。

同僚の女性が、生後6か月の赤ちゃんを伝統布で背中に背負った状態で、汗をかきながらプリンターの前にドカッと座ってプロジェクトの報告書を印刷していました。

その後ろ姿がなんともカッコよく、たくましく、「これこそ本当の『輝く女性』なのでは?!」と一人感激していた私。

今思えば、この時の後ろ姿が、アフリカの女性たちと働こうと思ったきっかけだったかもしれません。

(写真: NGOの同僚と子供たち)

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農村部の女性たちの現実

NGOの女性スタッフにすっかり感化された私でしたが、NGOのオフィスは田舎町とは言え「州都」に位置していて、その地域では栄えた街にありました。

栄えた街、といってもガーナで最も貧しい州の州都。当時スーパーはまだなく、肉も野菜も青空市場で買って、私を含めほとんどの家では洋服はすべて手洗いしていました。

それでも、一度慣れてしまえば生活はそれなりに楽しくて、近所の女性たちと笑顔でおしゃべりしながら過ごしていたため最初の頃は彼女たちの苦労があまり目に入っていませんでした。

しばらくして、同僚の付き添いで農村部の僻地にある開発プロジェクトの現場に行くようになってから、私はアフリカの女性たちの現実を知ることになります。

村の集会場で紅茶を飲みながら談笑している男性たちの裏でひたすら動き回る女性たち。

水を汲み、家畜の世話をし、素手でシアバターを作り、伝統柄の布を織る。見る限り四六時中ずっと動き回っているのに、明らかに収入は少なく子供たちも栄養失調の様子が見られました。

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それでも、私にたくましい笑顔を見せながら生活について話す彼女たちの姿を見て、私は2-3年のプロジェクトでいるのではなく、もっと長期で彼女たちのことを知り、向き合いたいと考えるようになりました。

「女性たちと仕事をしたい」決意した起業

ご存じの方も多いかと思いますが、国際機関の多くの仕事は2-3年のプロジェクトベース。出世すると現場から遠のくケースも少なくありません。
※もちろん、例外もあります

より長期に、彼女たちと共に仕事をする方法はないかと考えていたころに、同じような志しを持つ仲間からケニアで起業する誘いがあり、
初めて 自分でビジネスを立ち上げる という考えに至りました。

ビジネス、という手段を選んだ理由は2つ。

一つは、兎にも角にもまずは女性たちの雇用の拡大と安定化が必要と考えたから。ひたむきに努力する彼女たちが、その努力が報われるような仕事に就き、自分の収入を得ることが本当の自立につながるという考えに至ったからです。

もう一つは、適切な距離を保つため

途上国には今まで多くの外国人支援者が来ていますが、残念ながら中には「副作用」を考えずに物資やお金を与え続けた人たちもいました。外国人として事業を行う以上、「モノをくれる人」という見方はどうしても途切れません。また、私自身、彼女たちと距離が近くなりすぎることで理性よりも感情目線で仕事をしてしまうという自分に対しての疑念がありました。

ビジネス、という形をとることでお互いに共通のゴールを目指しつつ、一定の距離間を保てるのではないかと考えました。

因みに、なぜお世話になったガーナではなくケニア?かというと、単純に私が経営者として経験がなかったからです。

ガーナは本当に魅力あふれる国ですが、2012年時点では私の活動地域ではまだインフラ整備も整っておらず日本企業や実業家の参入も多くありませんでした。また、雨が降ると仕事に来ない、約束の時間に3時間待たされる、人の距離が近い、といった理由から経営初心者がビジネスの基盤を作るにはハードルが高いと感じていました。

一方ケニアでは、外国籍の事業者が多く参考例がたくさんあり、活動拠点にしたいと考えていた町のインフラもそれなりに整っていました。また、ビジネスマインドの人が多い地域であると知り、より活動しやすいと考えました。

今振り返ると、広いアフリカ大陸の西と東の対岸に位置する2つの国。

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同じ国の中でも部族や地域で大きく文化が異なる中で、「アフリカの女性たち」と大陸をひとくくりに考えていたのは少々浅はかだったとも思います。

この浅はかさは、ケニアで事業を始めてから色々な形で気付かされることになるのですが、この話はまた追々。

それでも、ガーナでのたくさんの出会いがきっかけで、私は起業という、それまで想像もしていなかった大きなステップを踏むこととなったのです。

起業から6年。葛藤しながらケニアの女性たちと向き合う日々

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2014年の夏からケニアのマチャコス市に工房を設け、女性たちとのモノづくりの日々が始まりました。

それから6年経った今、私は毎日、チャットやメールを通じてケニア工房とやり取りをしながら、WebマーケティングやSEO対策にあけくれ、新たな商品開発のプランを立てながらYouTubeチャンネルも運営し、腕が千本あっても足りないような多忙な日々を過ごしています。

ケニアからの連絡には一喜一憂、というよりは喜怒哀楽のジェットコースターに乗っているような感覚ですが、それでもこの6年で少なからず、彼女たちの仕事に変化を感じています。

ちょっと笑えちゃう話やビックリする話、ホロっとするエピソードを含め、このnoteを通じて少しずつご紹介できればと思います。

以上が私の#自己紹介。

お付き合いいただきありがとうございました!

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