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そこにお芝居がある限り! ~舞台『夜は短し歩けよ乙女』~

原作と脚本・演出に惹かれて行ったら、舞台とキャスト皆を好きになって帰った。
※ネタバレ含みまする。

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まず、森見登美彦の原作小説がとにかく大好きだ。
中高生の時に同世代の間で爆流行りしていたけれど、なかでも私は特に響いていた方なのではないかと思う。森見登美彦というメルヘンおじさんは、京都という土地を摩訶不思議な魅惑の舞台に仕立てあげ、現代日本語がかけ得る限りの魔法で物語を飾った天才である。原作は、「なぜ文学部の国文学専攻へ進もうと思ったのか」という理由の一つでもあるくらい、日本語を巧みに操ることの可能性を見せてくれた特別な一冊だ。中村佑介のおもちゃ箱のようなイラストや、黒髪の乙女の口調は、平成でも大正浪漫的な可憐を気取ることができる気概を与えてくれた。
メディアミックスでの翻案を見比べるのが好きな私にとって、そうしたタイトルの舞台化というのは見逃す手はない、ということになる。

しかも、脚本・演出はヨーロッパ企画の上田誠である。
言わずもがなアニメを通じて多くの森見作品に命を吹き込んできた名手であり、また『四畳半タイムマシンブルース』などでは「演劇」と「小説」というジャンルの壁を超えて物語世界の輪郭を融合させてきた森見登美彦のベストパートナーである。
ヨーロッパ企画本体の定期公演も大好きだけれど、他所で活躍する上田氏&劇団員の手腕も見事だ。以前に銀座・博品館劇場で観た舞台『ナナマルサンバツ』でも顕著だったが、アイドルやイケメンなどファンのついた俳優さんのキャスティングを、脇からがっしりと演技力で支え、原作の良さを生かした芝居を板の上で繰り広げてくれる信頼感は厚い。

反対にいうと、それ以降の要素については、期待を寄せて購入したわけではなかった。
とくに「怖いな~」と思っていたのは、黒髪の乙女である。
小説のテキスト上で輝かしい存在感を放っていた彼女は、アニメ化には正直もってこいで、ベストキャスティングの花澤香菜という声帯を得てファンタジー界の殿堂入り女神として羽ばたいていった。
しかし、だ。あれを現実でやったら確実にキツくなる。あのいじらしい口調と愛らしい立ち振る舞いは、我々の空想のなかでのみ実像を結び、決して3次元には進出してこないからこそ永遠なのであって、血が通ってしまったが最後、「そんな恰好する女いたら確実に大学で浮くわ」というコスプレちっくな残念さと、映画研究会とかで姫をやっているサークラ的な痛々しい現実味が押し寄せてきて、乙女の幻想が壊れてしまう…!と内心震えていた。
小津にしろ、樋口さんにしろ、李白さんにしろ、やはり戯画的でアイコニックなキャラクターであり、実写化するものではないだろう。考えれば考えるほど、主演の「私」よどうにか頑張ってくれ‥ということしか祈れなかった。

ところがどうだろう。
「諸君!」という威勢だけは良い主人公「私」の呼びかけとともに上がった幕は、不安を覚えた私が恥ずかしくなるほど完成していた。

プログラムのインタビューなどを読んでいないので定かではないが、おそらく冒頭の30分ほど、梯子酒をする黒髪の乙女を探して「私」が夜の街を練り歩くパートについては、ある意味で狙って「2.5次元」(テニミュや刀剣っぽさという意味でなく、平面と立体の間という意味で)を意識していたのではないかと思う。
プロジェクターを利用した流れていく街並みの背景の演出は、非常に映像的な仕掛けであったし、「私」が愚かな世迷言を独りで喚くときのアニメっぽいフォントの工夫だとか、そういった分かりやすい平面世界での工夫が凝らされていた。
登場人物が自己紹介のように次々と出てきて、原作読者も未読者も皆なんとなく全体の相関図を把握できる。伏線もばっちり。そしていったんエンドロール‥!?からの第2章!以降は、もっと「3次元」で演劇的な見せ方が多くなっていく。とっても上手い構成だ。

余談だけれど、2年前の夏に友人たちと京都へ旅行して、森見登美彦の聖地巡りをした。
その時に勿論訪れたのは、吉田寮や京大キャンパスに加え、「進々堂」と「bar moon walk」だ。舞台ではそういったロケーションの表現が写真で行われている場面もあったので、「行っといて良かった~~」と嬉しくなった。
聖地巡りって、「作品→現地」のターンのあとに、「現地→作品」のターンも絶対やった方が良い。これはテストに出ます。

さて、乃木坂46の久保史緒里さん演じる黒髪の乙女は、どうだったか。これが、いわゆる完璧というやつであった。果たして彼女がファーストチョイスだったのか、オーディションだったのか、私の知りうるところではないが、私のような陰鬱とした原作ファンの不安を払拭してくれた聖者であった。
私が懸念していた乙女のファッションのメルヘンみは、華奢で小柄な現役アイドルによって自然に着こなされていたし、これが「実写映画化」ではなく「舞台化」であることにも救われて、鮮やかな林檎色を基調とした夢見るワンピースたちはそれ自体が彼女のヒロイン性を象徴するモチーフへの昇華されていた。鯉を背負った姿、プリンセス達磨の雄姿‥どれもファンならブロマイドが欲しくなる紅コレクションである。
そして、彼女の口調――たとえばお友だちパンチを語る「そのそっとひそませる親指こそが愛なのです」にみられるような――およそ客観視という能力を持たない無敵の美少女だけが許されるそれは、音楽の力を借りてしたたかに現実世界に降臨していた。夜の京都を歩きながら乙女が語るモノローグは、舞台ではスローなトラックに乗せて紡がれていく。さすがアイドル、声が可愛くて歌も上手い。古めかしい文語体とほのぼのしたメロウビートが不思議に溶け合って、違和を感じる間もなく原作のままの乙女が具現化していたのだ。やはり、演出の力は偉大だ。
どうやったって「狙ってるだろ」としか思えないあざとい女子大生になる恐れのあった乙女の言動は、嫌味ゼロの極めて純な存在として実態を得ることに成功し、ゆえに我々は安心して「彼女の存在は何にも優先する」と語る愚かな「私」の恋心に身を任せて物語を追うことができる。

中村壱太郎さんも秀逸だった。
前半は比較的エンジンがかかっていなかったのか、もしかするとこれは星野源に軍配が‥?と思ってしまう自分も心のどこかにいたが、後半からの生き生きとした姿はまさに現代に生きる「私」そのものであった。個性的な顔立ちなのに、あの瓢箪だか瓜のような「私」に見えてくるのってやっぱり役者なのだなあ。
歌舞伎の女形いじりも楽しそうだったし、何より終盤で風邪をひいてからが目を見張るエネルギーを湛えていた。その日の調子だったのかは分からないが、軽く2重人格なのかと恐怖を覚えるくらい存在感が変わって、声に自信が満ち、湧き上がる情熱で滑舌がどんどん磨かれていく。それがちょうど黒髪乙女が先輩を好きになっていく過程と同調しているものだから、「こ、これが恋の力か…」と気圧された。
百万遍の御託をならべても結局彼は黒髪の乙女と両想いになりたい若人でしかなく、ロミオの様に愚直なアホになれない理屈っぽさが邪魔をして外堀だけを埋める職人に徹してしまうものの、我々の応援する目の前でついには一歩を踏み出していくのだ。
前半の不器用さが「私」への思い入れを深め、後半の変身が恋のパワーを感じさせる。板の上で私が見た壱太郎さんのその姿には、きっと森見先生も満足したのではないかと思う。

いちばん好きだった場面は、万年床で熱にうなされる「私」が脳内会議を開く場面だ。
正直原作やアニメでそこまで印象的なシーンでもなかったので、個人的に「舞台で見れて良かった」シーンとなった。
青い大きなチェック柄の“いかにも”なパジャマを纏った「私」が、自分にどうすべきかを問うと、小難しい彼の頭のなかでは別の「私」がなにやら消極的な小言をつぶやきながら出現し(別の俳優が「私」役として登場する)、次、また次と、何人もの同じパジャマ姿の「私」が続く。
おそらく出演男性俳優全員が一時的に舞台上に集まったのではないかという人数が成し得るビジュアルのインパクトと、それぞれが口々に喚く混沌とした声の波、それらを物理的に押しのけて心の結論を出す様、すべてがとても演劇の力という感じで好きだった。
幽霊や亡霊、幻覚などを舞台で表現するのは、映像の処理や作画での対応ができない分容易なことではないけれど、そういったシーンはけっこう好きだ。ミュージカル『エリザベート』のシシ―にしか見えないトートとか、『モーツァルト!』のアマデウスにしか見えない幼きアマデとか、ミュージカル『アナスタシア』の走馬灯で見える昔の舞踏会のシーンとか。上手く(分かりやすく)演出できれば、“いないはずの存在”として実態を持った生身の役者が息づいているということが、観客に揺るぎない体験を与えることができる。

今回も愛しの石田剛太さんは、あんなに個性的だったアニメの樋口像を瓢々とぶち破り舞台全体に軽やかな可笑しみをもたらしていて、竹中直人はほぼ本人として安心の笑いを取り、学園祭委員長は文句なしのイケメンだった。天晴れ天晴れ。

あまりにも二次元で完成された世界観のある作品も、映像や音楽の演出次第で舞台化が成功することもあると分かったことは大きな気づきであった。
大阪公演の配信もあるらしいので是非!

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