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40歳のギャルになりました

40歳になりました。

良い機会なので、自分の30代はどんなだったっけ?と書き出してみたのだけど、ところどころマジで記憶喪失してる年があって驚愕した😂

思えば私の誕生日は3.11のきっちり11日後で、いつも2011年のことを思い返すのと同じ時期にやってくる。
なので30代の記憶は所々危ういが、12年前のことはよく覚えている。

12年前のあの日に私は引越した直後の都内のアパートで、まだ荷解きもできていないダンボールに囲まれていた。
その日の夜は須田さんの手伝いでUNITに行く約束をしてたけど、銀座の仕事場にいた時に地震が起こり帰宅難民になりクラブどころではなくなったのだった。

その須田さんはその後若くして病で亡くなってしまい、イカれた若い娘だった私は40代のギャルになり、12年で本当に何もかもが変わりましたね。(須田さ〜ん見てますか〜)

YouTubeでたまたま震災孤児の男の子のドキュメンタリーを観て、あの年の夏に大船渡の小学校に行った時のことがまた思い返された。

海外のNPOの依頼で、児童のいる場所をパフォーマンスして周るというものだった。

津波で家族を失った子が何人もいて、学校から「その子たちと一緒に給食を食べてほしい」と提案いただいて同席したのだけど、心理学のプロでもなんでもない私には正直泣き叫んで走り去りたいくらいの衝撃だった。(嫌だったという意味じゃなく、ショックが大きかったの意です)
今だったら向こうも私なんぞを同席させないと思うんだけど、当時は先生たちも避難所生活で疲弊している中で、少しでも子供たちの気が紛れたらという思いだったんだと思う。

みんな、表面的に泣いたり落ち込んだりはしておらず和やかに過ごしているんだけど、小さな体に「なぜこうなったかわからない」という、悲しみ以前の葛藤をぱんぱんに詰まらせていて今にもはじけそうだった。

1人の子が私に耳打ちして「ねえ、お姉さんは、誰が世界を壊しちゃったか知ってるの?」と小声で聞いた。

津波で全てが崩れ去って異臭が漂うあの沿岸の風景が浮かんだ。
そこから記憶が途切れていて、自分がなんと答えたのか全く覚えていない。

私は答えを知っていたんだろうか。

40年も生きると、世には答えのわからない疑問が溢れていると知る。
知らざるを得ない。

と、同時に、人生は「答えを見つけるため」のまのではないことも。

わからないまま、腑に落ちないままでも、私たちは何かを得ることができるし、手放すこともできる。
わからないままでも、幸せになれるしなってもいい。

あの頃わからないことにもがいていた子たちは、きっと今もわからないままだし納得なんてしないし痛みは消えないと思う。
でも歳を重ねるにつれ、重荷を少しは手放したり誰かと分かち合ったりして、新しい何かを手に入れて、時には笑っていてくれたらいいなと思う。

私もそんなふうに、彼らに比べたら小さな傷や痛みを無数に内包しながらも、適宜手放して瞬間を感じながら生きていく所存です。

人生は「楽しむため」にあると思うからさ。

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