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徳・慈愛・利他愛・らしさ (その三)

日本精神(リップン チェンシン)

令和2年。2020年。7月30日
台湾を民主化に導いた 李登輝(りとうき)元総統が逝去されました。
台湾民主化の父 と呼ばれた方です。

お生まれになったのは 大正12年。1923年。
中学時代とにかく みんなが嫌がる仕事を率先してやりたかった。という事で
朝6時の起床と共に 人が嫌がるであろう 便所掃除を喜んでされたと いう
エピソード。また高校時代は 人間はいかに生きるべきか。死生観を苦悶された という事です。
そして 新渡戸稲造(にとべいなぞう)の 武士道 という本に出会われました。
日本と台湾は運命共同体。東アジアの防衛。そして今の私たち 記憶喪失になっている日本人にかつてのような 日本人の 
日本精神(リップン チェンシン)の復活を願って活動をして下さいました。
日本は敗戦によって一度は 大和魂を 抜き取られているのです。
物質的豊かさを得た時 残り火としての 大和魂を捨て去ってしまったのです。
大和心・大和魂  本居宣長の

「敷島の やまとごころを人問(ひとと)はば  朝日ににほふ 山桜花(やまざくらばな)」

日本にわずかに自生する 山桜花。艶やかな ソメイヨシノ ではなく 山に楚々と咲く桜。
吉田松陰 は

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

やむにやまれぬ想い。それが 大和魂の本質なのであり 
この 大和魂を私たちは取り戻さなくてはまりません。
終戦に際し 昭和天皇はマッカーサー司令長官に対し 
自分の命はどうなってもよいから 国民を救ってほしい と語られました。

昭和27年4月28日。サンフランシスコ講和条約執行。
平和条約を結んだ日本は この日をもって米国から 独立国家としての主権を回復したのです。といっても名目的な独立であって 半分の独立ですが。
独立の日を 昭和天皇は どれほどお喜びになられたことか。
国の為に殉じた 英霊たちのことを思えば どうして私どもは うかうかと 過ごすことができましょうか。

日清戦争の結果 下関条約によって 台湾が 清(しん)から日本に割譲されてから 先の大戦での日本の降伏まで 日本の統治時代であった台湾。
八田與一(はったよいち)は 

台湾において 灌漑工事などインフラ整備に従事し 烏山頭(うさんとう)ダムを造りました。今なお長く 台湾の偉人として称えられています。
鳥居信平は

農業土木技師で 荒地を緑の農地に というスローガンの下
忠犬ハチ公の飼い主で有名な 恩師の 上野英三郎博士から依頼されて
原住民の村人と 根気強く話し合いを続け 衛生的 地下ダムを造り 
サトウキビや 稲作・さつま芋・野菜などの 栽培を教えました。

末永仁(めぐむ)は 台湾米の 品種改良に取り組み 台湾の気候では栽培が不可能とされていた ジャポニカ米の開発に成功しました。
それは 蓬莱(ほうらい)米と名付けられ 台湾の農業を飛躍的に発展させました。

森山松之助は

建築士として 台湾総統府や 総統官邸 台中州庁 台北州庁など 
多くの重要な公共建築物を手掛け 今でも使われています。

1944年。
台湾に配属された 日本海軍の 杉浦茂峰(しげみね)少尉は

台湾に来襲した米軍機を 零戦で迎撃中に被弾し 
集落への墜落を避けようと 郊外に機体を誘導したため 脱出が遅れて 
落下傘で降下中に 機銃掃射を受け 戦死。
台湾の その地元の人たちの集落を守るために 命を落とした 杉浦少尉を
飛虎将軍(ひこしょうぐん)と呼び 廟を建て 

朝夕 「君が代」と「海ゆかば」の演奏を流し 今でも弔ってくださっているといいます。 

日本精神(リップン チェンシン)。自分の事よりも 世の為 人の為に尽くす。犠牲ではありません。
自分の存在を大切にした 犠牲的精神です。それは 後世に幸せな世界が継がれていく事を信じて。
こうした目覚ましい 日本人の功績・業績を 日本人が忘れてしまい 教わっていないという事は 本当に残念です。
李登輝先生は 
生きて国を守り 死んで国を守りなした。
台湾 と アメリカ
台湾 と 日本の友好を深め 台湾を独立国として認め合って 
李登輝先生の言う かつてのような 
日本人の 日本精神(リップン チェンシン)の復活を願って 
日々の生活の中の 自分にできることから 実践していきたいと思います。

引用・参考文献  
服部剛先生 感動の日本史  /  李登輝先生 武士道解題 ~ノーブレス・オブリージュとは 他

子ども絵画教室G-Child 濱谷園枝
http://masunao-kodomo.info/


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