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スポーツドキュメンタリー~プロ野球「三冠王と奪三振王の感覚」「門田博光」

 8月14日の時点で、打者として打率305、ホームラン41本、打点84。
投手としては10勝5敗で防御率3.17。大リーグエンゼルスの大谷翔平の
投打にわたる二刀流はまさに規格外の活躍ぶりを続けています。
 個人的には、打者大谷が好きで、一番の魅力は何と言ってもあの
全方向へ打ち分けられるホームランです。特に、大谷選手にとって
逆方向のレフトスタンドへ運ぶホームランは、まだ日本ハムファイターズ
時代、彼の二刀流が本格的に叫ばれ始めた確か2016年頃、対戦チーム
だったソフトバンクの工藤公康監督をして「柳田の打球に似ている」と
言わしめたほど、その逆方向に、滞空時間がながく、きれいな放物線を
描いてスタンドへ入るホームランはまさに芸術的です。
 打席に立った大谷の、193センチの長身とあの長い手足で、バットを
構えたときの、一分のスキもない、その立ち姿から発せられるオーラは、
対戦する投手からすれば、ひとたび投じたボールが、例え半個分でも、
「大谷選手の制空権内」に入ってしまった途端、強烈な速さのスイングで
ボールを捉えられ、そのままスタンドへ運ばれてしまうような
プレッシャーを感じてしまうはずです。言うなれば今の打者大谷は、
ただ打席に立って構えるだけで、相手投手を自分の術中にはめることができる状態なのではないでしょうか。 
 今の大谷選手が打席で発するそんなオーラに、対戦投手はどう対抗すれば
いいのでしょか?「打てるもんなら打ってみろっと」そのオーラを粉砕するような豪速球もしくは変化球の裏付けがある投手なら、大谷選手の放つ
オーラにも屈しないかもしれません。しかし相手はもう50本越えは
確実な怪物、メジャーの一流投手といえども容易くはないはずです。
 そんな頂点を極めたアスリートが発するオーラとは、あくまで感覚的
なモノで、もちろんそれは技術的な裏付けと過去の実績があればこそですが、観ているファンが視覚で確認できる技術的な部分以外に、プロの
アスリート同士その感覚の部分で、目に見えない駆け引きをしているところに焦点をあててみるのも一興です。
 以下、二人のプロ野球選手にまつわるその「感覚」という、当人だけが
感知できる部分の、プロフェッショナルならではと言える神秘的な
エピソードです。 


「一瞬で消え去った感覚」~落合博満

 落合博満、言わずと知れた三冠王に三度輝き、日本人初の一億円プレイヤー。「俺流」と称されるユニークかつマイペースな独特の調整法、そしてその卓越した野球観で、常にマスコミの耳目を集めてきた、歴代名打者の一人である落合博満ですが、そんな落合が自身三度目の三冠王を獲得した1986年の11月に開催された日米野球に、全日本の四番打者として初出場します。
 この時点では、まだ、セリーグの中日への移籍は表面化していませんでしたが、当時の落合はまさに向かうところ敵なし、意気天を衝くかの勢いで臨んだこの日米野球の試合で、落合のその後の打者としての野球人生に、深刻な影響を与えた体験をしました。以下は、その時の経緯をまとめた野球ジャーナリスト横尾弘一氏のコラムです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yokoohirokazu/20200901-00193071

 https://news.yahoo.co.jp/byline/yokoohirokazu/20200902-00195741

 この日米野球の第一試合と第二試合ともに、落合はタイムリーヒットを放つなど、ペナントレース中と同じ好調さを維持していたものの、期待された本塁打は出ずじまい。そして次の第三試合で、ある出来事が起こりました。
 西武球場(現メットライフドーム)でおこなわれた第三試合、その一回表の第一打席、その年21勝をあげたメジャー先発投手の投じた直球を、落合のバットは芯でとらえます。打球は、真っ直ぐバックスクリーンへ。落合もホームランを確信したようですが、それをあざ笑うかのように打球はフェンス前で失速して、センターのグラブへ収まりました。
 これを力負けととらえ、三冠王タイトル三度のプライドを傷つけられた落合は、次の打席からメジャーの投手が投げる、ぐいぐいと力で押してくるストレートに対して、自らも力のバッティングで対抗しようと強振します。その結果、なんとその試合は残り打席もすべて無安打。
 その後の第四試合でかろうじて一安打打てたものの、第五試合は快音は響かず無安打、結局、落合は完全に調子を狂わせたまま日米野球は幕を閉じました。
 これでこの話は終わりません。横尾氏の説明では、落合の本来のバッティングは、自ら振るバットの力だけではなく、相手投手の投げるボールの力も利用する独特なミート方法で、安打の山を築いてきました。
 それがその日米野球第三試合で、一打席目の打球失速、その後力でボールをとらえようと力んだ結果、落合は三冠王をとったペナントレース時の、打席にたったときの、「あの感覚」が消えてしまったそうです。
 翌年一月の自主トレでも、三度三冠王をとらしめた感覚は、消え失せたまま。この時点ではすでにセリーグ中日への移籍も決まり、ファンはセパ両リーグでの三冠王を達成することを期待して盛り上がる中で、しかし落合は、ひたすら「あの感覚」を取り戻すことに必死だったようです。
 やがてペナントレース開幕後も状態は変わらず、結論から言ってしまうと、その1987年だけでなく、なんと現役を引退するまで、落合の言う本来の「あの感覚」を取り戻すことができず、ごまかしながらプレーを続けたとの事です。
 繰り返しますが、1986年11月の日米野球の第三試合一打席目から、すべては始まりました。メジャー先発投手の投じた渾身のストレートを、落合の感覚では「完璧」にとらえ、打球はバックスクリーンへ一直線。ホームランを確信したものの、意外にも打球は失速しセンターフライ。力負けを痛感した落合は、力の直球に力のバッティングで打ち返そうと躍起になるものの、横尾氏の解説曰く「落合本来の力一杯のスイングではなく、投手が投げ込むボールの速度、重さ、キレなどの力も利用して弾き返す、遠心力も生かした独特の柔らかいスイング」とは全く異なるものだったようです。
 三度、三冠王をとらしめたバッティングの感覚が、このようにあっけなく崩れていったということは、改めてバッティングが繊細でとても微妙なバランスの感覚の上に成り立っているのだと思い知らされます。
 しかも、それが消え失せて、再び体の中に蘇らせることができなかったというあたり、なにやら一流アスリートのみが知る感覚というのものが、とても神秘的ですら感じます。
 プロ野球の限らず、他のスポーツでトップに君臨し続けているような一流選手も、本人だけしかわからない独特の感覚があって、その感覚を維持している間はトップの座に居続けることができる・・・そんな感じなのでしょうか。
 本人独自の感覚の中で、プレー中にその感覚を体の動きに変化させて、パフォーマンスにつなげる。そこはもう客観的な説明や数値化ができない感覚だけの世界。あらためて一流のアスリートと呼ばれる人たちの凄さをひしひしと感じます。
 それにしても落合の、その三冠王をとらしめた感覚が消えて、その後はいわゆる惰性でごまかしつつプレーしていたとしても、ところどころで勝負強さを発揮しながら中日の後、巨人、日本ハムと渡り歩いて、長い間現役を続けられたことは、その「感覚」がいかに凄かったかということであり、また同時に、もしその「感覚」が生き続けてセリーグでも三冠王をとっていたら・・とか今あらためて想像してみたりするのも、一野球ファンの楽しい作業のひとつです。

「困ったらインコースのストレート」~川口和久

 川口和久・・かつて広島が投手王国と呼ばれていた時代の、北別府、大野に続く三本柱のひとりで、巨人戦に滅法強く、左腕からくり出すキレのいいストレートと落差のあるカーブで、三振の山を築く、その躍動感溢れるピッチングは、今でも強く記憶に残っています。
 広島の大野、川口と、巨人の槇原、斎藤の両チームエース同士の、1点取られたら負けの手に汗握る緊迫した投手戦は、乱打戦とはまた違った見応えある試合でした。
 あれは確か1989年のペナントレース終盤の9月、5ゲーム差ぐらいで首位を走る巨人、それを追いかける広島との東京ドーム三連戦、第1,2戦を佐々岡、長富で連勝した広島は3タテを賭けて3戦目の先発を巨人キラーの川口に託します。相手巨人の先発はエース斎藤雅樹。予想通り序盤から1点を争う投手戦、スコアボードにはひたすら0が並びます。
 そして9回裏、確かワンアウトでランナーは一、二塁で一打サヨナラの緊迫した場面。熱投を続ける川口の対する巨人のバッターは、職人篠塚。カウントははっきりと覚えてませんが、恐らくフルカウントだったか。そして投じた川口のボールはインコース高め、篠塚はバットを振るも、打球は真上にあがり、あえなくキャッチャーフライでツーアウト。東京ドームに響き渡った巨人ファンのため息と、「さすが川口としか言いようがないですね、わたしでもこの場面、どのボールを投げていいか迷います」とその時の解説をしていた江川卓のコメントを今でも鮮烈に覚えています。試合自体は、その後4番原のセンターフライを、前進守備のセンター長嶋が後逸してしまい、2塁ランナーがホームインでサヨナラ負け。あの試合は、私のなかで忘れられない試合のなかの一つです。
 当時は投球数など関係なく、当たり前のように先発投手は完投を求められていた時代。そんな中、フォアボールを連発して塁を埋めるも、そこから、フルカウントだろうがなんだろうがバッタバッタと三振をとって、結果0点に抑える川口のピッチングは、エキサイティングでドラマチックでした。
 そんなカープのエース左腕川口ですが、1994年にFAで巨人へ移籍、1998年に現役を引退します。この「投球論」(講談社現代新書)は、川口が引退した年の翌年に、自身の経験をもとにしたピッチングに関する考察、落合、クロマティや高橋由伸ら強打者と対戦したときの駆け引き、そして13年間在籍した広島カープとFAで移籍した読売ジャイアンツの、地方球団と球界の盟主である球団のチーム文化の比較論など、野球ファンにはとても興味深いエピソード満載の内容で、一方でそんなに野球に深く感心がない人でも、スッとはいっていける読み易い本だと思います。 
 この「投球論」の序盤辺りで、自らの投球スタイルのコンセプトを川口はこう述べています。少々長いですが引用します。

 「ここで言いたいのは、投手のボールには本線と枝葉があるということです。そして、川口という投手の本線は、インコースのストレート。これしかありません。勝負にいくとき、あるいは0-2、0-3のような不利なカウントになったとき、あるいは二死満塁で2-3になったようなとき、ボクは必ずインコースにストレートを投げてきました。"フルハウスの川口"という異名もあったくらい2-3のカウントがしょっちゅうあったピッチャーですが、最後のボールは必ずインコースのストレートです。
 「インコースいっぱいを突いたストレートは、どんな打者でも腕を伸ばしてとらえることができないのです。もちろん詰まりながらホームランになるという例外的なケースもあるでしょうが、基本的にはインコースを的確に攻めれば、打者の腕が伸びないから打球は飛ばない。ホームランなんか打たせないぞ、というボールです。そして、ちゃんと上回転のかかった伸びるストレートなら空振りを取ることもできる。三振の取れるボールでもあるのです。」
 「だから、困ったらインコースのストレート。これがボクの本線です。参考までに言えば、このボールを身につけるのは、試合の中しかありません。ブルペンでいくらインコースを練習しても、たとえば2-3から確実にインハイでストライクのとれるストレートは身につきません。打者も本気で打ちにきている試合の中で、不安を振り払い、開き直ってインコースを狙うことで、はじめて、体がインコースの投げ方を覚えてくれるのです。いくら頭でわかっていても体が動かなければ、知らないのと一緒でしょう。下半身の使い方、腕の振り方、すべてを体で覚えていく。そうすれば体中の筋肉がインコースの投げ方を記憶してくれる。この一球というときに、筋肉の記憶が、きっちりインコースにボールを投げさせてくれるのです。

「投球論」より

 本書で川口本人も認めているように、「荒れ球」が特徴のピッチャーです。2-3のフルカウントになって、結果そのままフォアボールなんてザラのピッチャーでした。
 先発投手は100球前後を目安として、その後は中継ぎ、抑えと分業化されている今日と違って、5回が終わって100球を越えていようが、勝っていればおかまいなしにそのまま先発投手が投げ続けていた時代。だからこそ成り立つ投球スタイルだったのでしょうが、それでも本書で川口が協調している、フルカウントになっても最後の決め球インコースへのストレートを、迷わず恐れず思い切り腕を振って投げ込む。するとバッターは振ってくれて、そして三振。この「インコースに決め球を投げる感覚」は、いくらブルペンで練習しても身につかない。試合中、ランナーを背負ってピンチの、緊迫した場面の中で、相手バッターのインコースに思い切って投げ込む。それを体中の筋肉が記憶してくれて、また、同じような場面でも、相手インコースを攻めて抑えることができる。
 川口と同じようにフォアボールを連発する投球スタイルで、当時阪神に在籍していたマイク仲田こと仲田幸司というサウスポーがいました。その仲田に川口が、感覚的なことを説明するシーンがあります。以下、引用します。

 「川口さんって、不思議ですよね。なんで2-3からは打たれないんですか。ボクはたいてい打たれるんですよ
「幸司は2-3から思い切り投げてるか?オレはいつも思い切りインコースにだよ
そう答えたのを覚えています。彼は結局、大成しないまま引退しました。おそらく、2-3の次のボールで打者を牛耳ることができなかったのだと思います。自分の本線となるボールを持つこと、それを信じて体で覚えることが、おそらくできなかったのだろうと思います。

「投球論」より

 どうして打たれないんですか?と聞かれても、川口も試合で、それも塁がランナーで埋まっていたり、不利なカウントとかのピンチの場面で、打者と対戦しながら「培った感覚」なので、客観的に、また数値化とかして説明したくてもできない・・だから思いっきりインコースに投げろ!としか答えようがない。
 緊迫した場面で、インコースに思い切って腕をふってストレート投げる、その体にしみこませた感覚は、つまり川口が修羅場のなかで、独自に到達した、唯一無二のものなのでしょう。
 川口は三度の最多奪三振のタイトルを達成しました。落合の三度の三冠を成しえた時のような感覚と同じで、その選手本人しか感じることができないものだったようです。何というか、これも神秘的な感じがします。

  「広島というのは雑草から花を咲かせるようなチーム、期待されてない人間を這い上がらせていくようなチームでした。素質がありそうだから、ダイヤモンドの原石みたいなものを練習で磨いて大きくしていくわけです」

「投球論」より

 「投球論」の最後のあたりで、川口は広島と巨人のチームの違いを比較しながら、広島というチームについてこうのように述べています。
  マツダスタジアムができて、2016年から誰も予想できなかった三連覇を果たし、いまでこそ巨人や阪神と人気の点ではある程度肩を並べられるような感じですが、川口が在籍していた頃は、お世辞にも綺麗で設備がととのったとは言い難かった広島市民球場で、巨人戦以外は空席が目立つ試合が多く、県外の人からすればセリーグというよりは、当時のパリーグのチームようなイメージを持っていた人も多かったのではないでしょうか。
 かつての広島イコール猛練習というイメージも、本書で川口が言っているように、巨人や阪神とかのアマチュア時代からスターでエリート選手を向こうに回して、かたや「雑草でダイヤモンドの原石」のようなアマチュア上がりプロ未満の選手を、気持ち的にも体力的にも負けないように互角にプレーさせるためには、ひたすら猛練習をするしかなかったということで、つまり、資金力も乏しく、ファンの数も限られていた地方球団だった、当時の広島の、もがきながらも遮二無二に人気球団に挑んでいこうとする選手、そして球団の醸し出す雰囲気から出来上がったものではないでしょうか。
 今でこそある程度人気球団で、アマチュアでトップレベルの選手も入ってきますが、「雑草でダイヤモンドの原石」が「花開いて、原石がキラキラと輝くダイヤモンド」になり、またあの三連覇のような奇跡を実現してくれることを、いちファンとしては願ってやみません。

「求道者」~門田博光 

 最後に、今年1月に亡くなった、プロ野球通算本塁打数で歴代3位の567本塁打を放った往年の強打者、門田博光のことを書いてみたいと思います。

 門田が亡くなってから、多くの追悼記事がYahooニュースに掲載されました。それら記事のなかで、あるひとつのエピソードが、何人かのスポーツ紙の記者によって書かれていました。それは入団した南海ホークスの当時の選手兼監督を務めていた、野村克也とのバッティングを巡るものでした。
 門田は、南海に入団して2年目に、31本塁打、120打点素晴らしい成績を残しました。身長170センチで、野球選手にしては小柄な門田ですが、打席では常に本塁打狙いの大振スイングだったそうです。
 そんな門田を傍らでみていた野村監督は、門田を安打を量産する、そして走攻守三拍子の揃ったような選手にしたかったらしく、一方、みずからも当時南海の4番打者だった野村監督は、長打を打ってランナーを返すのは俺の仕事で、お前(門田)はヒットを打って塁に出さえすればいいんだ・・という意識があったようです。
 確かにそんな理由もあったのかもしれませんが、門田の体型、身体能力などを考えて、負担のかからないプレーで長く現役を続けてほしい親心みたいなものも野村監督にはあったのかもしれません。当時巨人の四番打者だった王貞治も動員して、門田本人の意識改革を促したようです。
 しかし門田は、そんな野村監督や王貞治のアドバイスをけんもほろろに拒絶、二人の大先輩は面目丸つぶれだったようです。二年目の門田も、恐らくは内心バツが悪かったのではないかと思いますが、それらの出来事を発奮材料にしたのか、以後、我が信ずる道を行くが如く、大振りスイングでホームランを量産し続けて、途中、右足アキレス腱断裂に見舞われるなどの選手生命が危ぶまれるピンチも乗り越え、強打者として活躍を続け、88年は40代で本塁打、打点の二冠王にも輝きます。
 私は門田はパリーグだったこともあって、当時はそんなに高い関心はなかったのですが、印象に残っているのは、選手としては晩年にさしかかったオリックス時代、1990年近鉄の野茂英雄のルーキーイヤーで、パリーグに野茂のトルネード旋風が巻き起こっているとき、打席に立った門田が野茂のフォークに豪快なスイングで空振りしているシーンです。

 今回、亡くなって多数の追悼記事を読んで、初めて選手として、また引退後のひとりの元野球人としての、人となりをうかがい知ることができました。
 一言で言えば、まさしく「求道者」そのもの。いくら野村監督や世界の王貞治に「ヒットの延長がホームラン」と説かれても、門田は「ホームランの打ち損じがヒット」の信念を曲げず、そのこだわりを具現するべく、まさしく血のにじむような努力を続けたようで、筋力トレーニングが今日のように周知されていなかった時代に、遠征先の宿舎の部屋では、10キロの鉄アレイを使って日夜トレーニングに励み、また、同僚の選手と飲んで夜中に宿舎に帰った後も、素振りを欠かさなかったほどの徹底ぶりだったようです。
 ある追悼記事では、門田を「極端な野球バカ」と表現していましたが、「求道者」であり、妥協せずひたすら自らのスタイルにこだわり続ける、そんな門田の生き様は、周囲に「極端」なイメージを与えていたのかもしれません。
 そんな極端さは、門田の肉体だけではなく、気持ち的にもどこかしら無理がたたるのでしょう。シーズン中は節制に努めたようですが、オフになると豪快に酒を飲みまくったようで、引退後はさらに大酒に拍車がかかり、びどいときにはビール中瓶20~30本、日本酒一升瓶を2日で空けるような生活を続けて、関西でナイターの解説が終わってからも繁華街へくり出して、一晩でビール30本を飲んだとか、その酒豪伝説のエピソードは枚挙にいとまがないほどだったそうです。
 引退後、そんな不摂生な生活に身を置いたことについて、週刊ポストの取材に門田はこう語っています。

「引退して気が緩んだんやと思う、(中略)、23年間必死で頑張ってきて、ホッとしたのがアカンかったんかな。あんまりハードルの高いことばかりやってきたから、人生が燃焼しきった」 

 またNumber Webの追悼記事では、以前、門田が選手時代を振り返って、語った内容を載せていました。

「誤解されながらずっとやってきた。社交性なんていらないと思ってた。
体格にも恵まれていない自分がわずかでも隙を作ったり、一つでも崩してしまったら修正が利かないと思ってた。バカになれない。バカになれば楽になるのにね。だから人生疲れるし、しんどかった。嫁さんや子供にも嫌われるし、自分自身も嫌いになる。
 インタビューしてくるマスコミの人にも悪かったと思うよ。もうちょっと柔らかく接してあげればよかったけど、それは出来なかった。でも、当時そうやっていたから567本のホームランを打つことが出来たと思ってます。プロ野球はそれだけ微妙な、ほんのわずかな差が分かれ道になるんですよ

 そんな門田の語り口からは、ひたすら自分のこだわるがままのスタイルを貫き通して歩んできた野球人生に対して、どこか自分自身を笑いとばしているようでもあり、成功の陰の代償の重さも感じながら、勝手な想像ですが、一人ロッカールームに佇んで、往事に思いをはせている、門田の姿が脳裏に浮かんできそうです。
 
 門田よりも後の世代で、元広島カープの前田智徳も同じような求道者タイプの強打者でした。その前田曰く「自分の身体能力(前田も身長176センチ)に適した打撃をこころざしていたら、怪我ばかりすることもなかったのかもしれない」みたいなことを語っていた記事を読んだことがあります。
 「ヒットの延長がホームラン」と門田に説いた野村監督は、過度な負担を体にかけると、そのひずみが他の部分に出てくることを危惧して、門田にスイングを改めさせようとしていたのかどうかわかりませんが、自分のこだわるがまま無理を続けたことと、その後アキレス腱断裂や引退後の大酒などの不摂生となってあらわれたことはまったく無関係ではないと思います。
 しかしながら、理にかなった生き方のみが必ずしも正しいとは限らないと思います。一般人と違って、他人より抜きんでた才能をぶつけ合うプロ野球の世界です。身体や心が悲鳴をあげようとも、自分のこだわりを頑なに守り通して、 結果を求め続けるその意地こそ、プロとしての矜持なのかもしれません。
 いくつかの追悼記事でも触れられていましたが、門田の晩年は、一般にイメージするような、家族や孫に囲まれての悠々自適な余生とはかけ離れて、一人で山村の別荘で暮らしていたようです。確かに失ったものは大きかったのかもしれませんが、勝手な決めつけが許されるならば、追悼記事を読む限りでは、私は門田が自分自身の生き方にそれほど悔恨めいたもの抱いていたようには感じません。失うものもあれど、勝負の世界を駆け抜けた男のカッコよさ、涼やかさを私は感じます。本当に、お疲れ様でした。

最後までお読みいただき、大変ありがとうございました。

石本克彦

参考文献

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