安心と不安のはざまを、ひと駅分走る【湘南台~六会日大前】

まずい、7月が終わってしまう。最低月に1度はランニングをすると決めたのに、今月はまだ1度も走っていない。がしかし、やる気が起きない。そもそも生活圏内の道はお散歩で何度も歩いているうちに飽きてしまって、走る気にならないのだ。いつもと違う道をめちゃくちゃに走るのならやってみたいような気もするが、私は重度の方向音痴なので、下手をすると家に帰れなくなる。そこでふと思いつく。「そうだ、ひと駅分だけ走ってみよう」と。線路沿いにずーっと走っていけば、道に迷うことなく隣の駅にたどり着けるだろう。帰りは電車で帰ればいいし、楽勝だ。そうと決まれば気が変わらないうちに急いで支度。Tシャツに短パン・レギンスタイプのラッシュガード・スマホと財布を入れたウエストバッグという軽装で、家を出る。

今回はドキドキ要素として、方向音痴のライフライン・Googleマップを使わないというルールを設けてみた。この決断がどれほど勇気のいることか、正常な方向感覚を持っている人にはわからないだろう。私の方向音痴はかなり深刻で、ほぼ毎週行くスーパーと歯医者以外の場所は、基本的に地図を使わないとたどり着けない。もうこの街に住んで4年になるのに。3ヵ月に1回ほど行く地元の図書館ですらたまに迷う。これまでの人生で、道に迷ったせいで参加できなかったイベントが山ほどある。姉のバレエの発表会、初恋の先輩とのデート、大学の実習、日雇いのアルバイト、就職面接.....挙げだしたらキリがない。ちなみに病院で調べてもらったところ、脳に異常は特にないらしい。

スタート地点は、小田急線の湘南台駅。線路を目の前にしてさぁ走ろうというとき、さっそく問題が。線路をどっちに向かって進めばいいかわからない。走っている電車に書いてある行き先をチェックすればわかるのでは?と思い確認してみたが、視力0.3未満なので文字がぼやけて読めない。方向音痴で目も悪いなんて、なんて性能の悪い体なのだろう。仕方がないので、どちらに進むかは当てずっぽうで決めることにした。「六会日大前駅」か「長後駅」のどちらかには着くはずだ。どちらかに着けばいいや。そう考えて、私は左方向に走り出した。



梅雨が明けきっていないこの時期は、曇り空で湿気は高いものの、気温が低くて走りやすい。軽快なステップで数百メートル進んだところで、見知らぬ景色が目の前に広がった。普段足を踏み入れない住宅街だ。住宅街に入ってしまうと、線路が見えなくなる。でもここしか道がないので、仕方なく入る。線路の位置を意識しながら、なるべく遠ざからないように進む。がしかし、住宅街には何しろ行き止まりが多い。行き止まりにぶつかっては引き返して別の道を、ということを繰り返していくうちに、ずいぶん線路から遠ざかってしまった。2回以上曲がり角を曲がると方向感覚を失ってしまう生物の私は、どちらに進んでいいのか、もうさっぱりわからない。

不安から、走るペースがどんどん落ちていく。ほぼ早歩きに近い速度で恐る恐る進んでいると、突然目の前に横幅の広い坂道が現れた。なかなか傾斜の激しい下り坂で、コンクリートで固められた地面には滑り止め用にドーナツ型の溝がたくさん彫られている。こじんまりとした住宅街の細い道を進んできたせいか、私の目にはその広々とした坂道が行き止まり地獄を打開してくれるゲートに見えた。半ば吸い寄せられるような形で、坂道に足を踏み入れる。やはりかなり急な下り坂だ。転げ落ちないようにつま先に全神経を集中させながら、トトトトトッと小走りで下りてみる。

狙いは的中し、坂道を下りきったところで大通りに出た。住宅街の迷宮から無事に抜け出せたのである。でも、肝心の線路はやっぱり見つからない。というか電車の音すら聞こえない。もうこうなってはお手上げだ。ということで、はじめに設けたルールをあっさりと破って、Googleマップを起動(方向音痴には、諦めが肝心なのだ)。どうやら私は六会日大前駅にじわじわと近づいていたらしい。幸運なことに、このまままっすぐ1kmほど進めばゴールだ。

これ以上道に迷う不安から解放された私は、ご機嫌で走り出す。家賃が15万円くらいしそうなオシャレなアパートや、「1000円カット・女性専用!」と書かれた美容室が、目の横をすべるように通り過ぎていく。自宅からそう遠くはないのに、一度も通ったことのない道って結構あるもんだなぁとありきたりな感想が頭に浮かぶ。日頃の運動不足がたたり、徐々に息が苦しくなってきたので、走るのを止めて歩くことにした。背中ににじむ汗や首の周りに感じるむわっとした熱気で、バスケットボールに明け暮れていた高校時代を思い出す。スラムダンクに感化されて高校からバスケを始めてみたものの、桜木花道のような生まれ持った身体能力があるはずもなく、2年間ベンチを温め続けた挙句途中で辞めたんだったな......。うーん、どうでもいい記憶だった。

歩いたり走ったりを繰り返しているうちに、見覚えのある店を見かけた。中古釣具屋の『タックルベリー』だ。釣りに飽きてしまってからはすっかり足が遠のいていたが、かつて夫と共に何度か歩いて来たことがある。見たことのある景色が現れる安心感。さらにしばらく進むと、ファミリーレストランの『デニーズ』が現れる。知ってる!この道知ってるよ私!ここでチョコサンデー食べたよ!一気にテンションが上がったが、それ以降は見覚えのある景色が途絶え、知らない道を走る心細さが再び襲ってきた。タックルベリーやデニーズには確かに行ったことがあるのに、その隣の店や道全体には見覚えがまるでない。なぜだ。

この「安心」と「不安」の状態を行き来する状態にさらされて、私は今まで自覚していなかった自分の特性に気が付いた。

方向音痴の人間にとって、「目印」は永遠に「目印」でしかないのだ。

これまで私は方向音痴を少しでも改善しようと、目印となる建物を覚えることに必死になっていた。しかし、その目印を中心に、周辺の位置関係を把握することができない。目印として覚えた建物のみがピカ―ッとスポットライトを浴びていて、それ以外のエリアは真っ暗闇なのだ。点と点を結べばいつかは線になると信じていたが、点が3つ、4つ、5つと増えるだけで永遠に線にはならないのだ。だからいつまでたっても道順や覚えられないのか!
とてもスッキリしたが、これまでの努力が無駄だったことを思い知らされてなんだか落ち込む。

そんな思いを巡らせていると、大きな建物が見えてきた。六会日大前駅だ。さんざん回り道をしても距離にして3km弱、私の遅い足でも30分未満で走り切ることができた。大学への通学で使うようになった頃から薄々感じていたが、やはり小田急線の1駅は短い。達成感よりも無事にたどり着いた安堵から大きく息をつき、私は足を止めた。

この駅には、何を隠そう私の母校である日本大学の生物資源科学部がある。「せっかくだし売店でジュースでも買おうかしら」「いやそれより教授に挨拶でも...」という思いが一瞬よぎったが、汗だくのランニングウェア姿で侵入したら完全に不審者なのでやめた。おとなしく駅に入り、改札にPASMOをタッチする。ほどなくしてやってきた電車に乗り込む。

ランニングウェアで電車に乗るのは結構恥ずかしい。「いやお前電車乗るんかい!走るんちゃうんかい!」と、どこからかツッコミが聞こえてくるからだ(もちろん気のせい)。リュックでも背負っていればハイキングに行く途中ですよ~という素振りができるのだが、ウエストバッグは完全にランナーだ。言い逃れできない。恐る恐る周囲をぐるりと見渡してみたら、誰も私のことなど見ていなかった。みんなスマホに夢中。よかった。

電車を降りて家に帰る途中、甘くて冷たいものが飲みたいなと思い、マクドナルドでバナナシェイクのSサイズを買う。ランニングウェアでマクドナルド。これもなかなか恥ずかしい。「いやお前カロリー消費してきたばっかりちゃうんかい!」とツッコミが聞こえる(気のせい)。電車やマクドナルド以上にランニングウェアが似合わない場所ってどこだろう。焼き肉屋?タクシーの中?結婚式場?
「舞踏会」という最強の答えを思いついたところで、店員さんからバナナシェイクを手渡された。

それにしても今日は、長年苦しんできた方向音痴について、思わぬ発見ができてよかった。走りながら目に入った物や感じたことついてぐるぐる考えるのって、結構楽しいかもしれない。次回はまた別の駅をスタート地点にして、「ひと駅ラン」をやってみようかな。そんなことを考えながらバナナシェイクをズズズと吸い、のろのろ歩いて帰路につく私は、もはやランナーでもなんでもなかった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?