ただ抱きしめる、という選択
人間は、いつでもそこですぐに、答えみたいなものを導きださないといけないのだろうか。
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新年度がはじまった。
保育園でも子どもたちが進級し、わたしも関わる子どもたちが変わって(一応ね。気持ち的にはクラスなんて括りで彼らをみたくない)、今年度は、2歳児クラスのみんなと保育園のなかで一緒に過ごすことが増えた。
自己と他者が別である、ということを理解しそうな、でも理解しきらない、そんな狭間にいる彼らは、よく衝突する。
そして、感情がいろんなカタチで溢れてくる。
ぽろぽろ涙を流す子。
悲劇のヒロインみたいにその場に崩れおちる子。
大きな声を出して、主張をする子。
他者を傷つけてしまう子。
もうどうしようもなく
ただただ悲しいし、寂しいし、怒っている。
ほんと、そんな感じで、彼らは感情を出してくれる。
そんな時、一旦見守ることが多いんだけど、その後、その子に対してどう関わることができるだろうと、考える。
「どうしたの?」
「その積み木、あおくんも使いたかったのかな」
「そっか、悲しかったんだね」
わたしはそういう言葉と並んで、最近こうやって声をかけることが増えた。
「ぎゅっ、しようか?」
そう声をかけると、ぎゅっとしてほしいと思った子は、泣きながら、時に怒りながら、すっと腕のなかに入ってきてくれる。(ハグが必要ない子は、「ううん」って教えてくれる)
おもしろいことに、大人(他者)からああだこうだ言われる時よりも、うんと短い時間で心をすっとさせて、また、遊びにいくことが多いのだ。
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わたしが気持ちがざわざわしている時にしてほしいことってなんだろう、と考えてでてきたひとつが、「ただ抱きしめてもらう」というものだった。
だって、どうしようもない気持ちを、その瞬間に整理しきって、「はい、わたしが悪いから謝ります」とか、「分かった。じゃあ別のもので代替えする」なんて、とてもじゃないけど難しいんだもん(笑)。
だから、ぎゅってそのまんまを受け止めてもらうことで、余白をつくる。
力の入っていた身体を緩めて、心にスペースをつくる。
ひとまず休憩する、という表現が正しいだろうか。
抱きしめてもらう時間は、そんな風にわたしには作用する。
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みんながみんなそれを求めているわけではないと思うけど、選択肢のひとつとして、「ただ抱きしめてほしい」があってもいいんじゃないか、と思うから。
陽だまりの中で人がホッとするように、大人にも子どもにも、「ぎゅっ、しようか?」と言える人でありたいなあ。
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