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この6週間、様々なメディアを観て考えたこと。

ロシアとウクライナの戦争が始まってから自分が感じていたことの中に、「簡単に分かりたい需要」というものがある。

間違ったことは言いたくないけどイチから勉強したくもないし、関心がないとも思われたくないという感情は、誰でも発信ができるようになった今、抱く人も少なくないと思う。今回の戦争に限らずだが。自分にもそんな気持ちがある。

自分の情報源は、触れている時間が長い順に、SNS含めネット・ラジオ・音声配信・テレビだ。

一日の中でテレビを見る時間は短いが、厳選された扇情的な映像は、短い時間でも強く記憶に残る。

ネットにはおそらく、テレビより現場に近い声が多くあると思うのだが、何が真実を見極めるのにやや技術を要する。情報が玉石混交かつ膨大すぎる。

そういう点で、ラジオの中で自分が信用している番組は、テレビに求められる表面的わかりやすさよりも内容を深掘りしている。その分制作側の意図も、受け手側の的をテレビよりはかなり絞って作られていると感じる。(ある意味、見解が偏っている。)

全て一長一短があると思いながらも、日々様々なメディアに触れている。

そんな中である日気になったのは、ネット上で見かけた複数の「これを聴いて全て理解できた!」というような言葉だ。

私も毎日聴いている音声配信があるのだが、その中で、10分でとても簡潔にロシアとウクライナの関係を解説しているものがあった。

このメディアの中では、ビジネスの知識やマーケティングや投資といった題材で発信している人は多くいるが、時事問題を解説している人の割合は少ない。

そういう中で、知らないことは恥ずかしいしがイチから勉強したくない層の「簡単に分かりたい需要」に、「伝わる話し方」を研究・実践してきた人の端的な解説が、まっすぐに刺さることは想像に難くない。

専門家が、30分も慎重に言葉を選びながら、自分にも理解しがたい部分もあるが等言いながら解説する内容より、遥かに「届きやすい」だろう。

私は、自分が受け取るすべての情報において、これは情報の一端であるとか概要であるとか、いち個人のフィルターを通したものであるという意識が必要だとは、常々思っている。

その上で、自分はどう思うのか、自分の意見は何かを考えることが重要だとも。

でも結局は自分も、様々なメディアに触れながら、どこかに分かりやすい答えを探している面もある。

そんなことを考えている日々の中で、写真家である児玉浩宜さんの取材を見始めた。

児玉さんがウクライナに行くと人づてに聞いたときは、すごく戦闘の激しい地域で戦禍の写真を撮りに行くのかと思っていたけれど、そういうことでもなかった。

テレビでは、だいたいどの局でもほぼ同様の凄惨な映像を見る日々だったが、ウクライナの各地を巡りながら児玉さんが発信する情報は、それぞれの地に住む人の、たった今の日常だった。


避難してきた人、元々そこに住む人、趣味や通常の生活を忘れない人、軍への入隊を志願する人、したくない人、銃器の講習に参加する人、家族、カップル、家族と離れた人、大人、子ども…

もちろんこれらも、児玉さんという一人の人を通して見させてもらっている人や雰囲気、翻訳される言葉の数々であるのだけれど、児玉さんの取材がいいなと私が思ったのは、それらが「答え」ではないと感じたから。あるいは問いのように感じたから。

今起きていることについて、自分が考える余白があると感じたからだ。


テレビに映る映像を観ていると、これは悲しむべき・憎むべき・糾弾すべき・怒るべき事柄であると瞬時に判断してしまう。

ゆっくり考えても、きっとその感情に到達するのだろう。けれど、なぜ自分がその結論に至ったのかが抜け落ちると、自分の日常とそうではない世界との切り替えが瞬時に可能であったりもする。その度に、もっと考えなくてはいけないのでは、と自分は思う。

児玉さんの取材のように、例えばニュースのインタビューで現地の人が答えている場面も観たが、そういった個人の言葉であっても立ち止まって何かを考えられるのは、映像ではなく写真のなせる技だとも思う。

(あと、全然うまく言えないのだけれど、児玉さんの写真には臨場感とノスタルジックが不思議に共存していてそれぞれが美しく、あたたかくてどこか孤独で、そこにも心を留める余白を感じる。)

児玉さんの取材を通して、ウクライナで今も暮らす人たちの生活を知って、自分は同じ立場になった時に、日常を忘れずにいられるだろうかということを考えた。

そうせざるを得ない状況ではあるとはいえ、これまでの日常も大事にしている現地の人に、不適切な言い方かもしれないけれど、希望も感じた。

児玉さんのツイートの中に「ナショナリズムに回収されないためにも」という言葉があった。これを読んだときに、これはゼレンスキー氏に対して言っているのかプーチン氏に対して言っているのか、いや全てのナショナリズムに対して言っているのかということを考えた。

この戦争に対して私は最初、もちろん仕掛ける側に非があるのだが、それとは別にゼレンスキー氏のナショナリズムについても、とても気になっていた。どこまでも戦うべきなのだろうかということを考えた。

何が正しいのかはわからないし、日本人である私が言えることでもないと思う。でもまだ考えている。ただ思っていることは、誰にも死んでほしくないということだ。「誰にも」。

現在、ゼレンスキー氏の現代的なメディア戦略(日常でも使われそうな言葉だがほんとうに「戦略」だ。)が、世界的に高く評価されている。自分も、たしかにすごい、新しいなどと思ってしまう。そんな時、どこから何をどう見て言っているのだろうと自分に思う。

なぜロシアは苦戦しているのか、ウクライナは強いのかという、なんというかプラスチックのような言葉も普通に聞かれるが、今起きていることはスポーツでもなんでもなく戦争である。

自分と遠い場所で起きていることは、どこまでも切り離すことができる。これまでもずっと切り離してきたのだ、私も。

今でも毎日、何が正しいのかは分からない。分からないけれど、そう思っていることはそのとき言葉にしていきたいし考え続けたいし、誰かと共有したいと思う。

これを書くのにも、ものすごく時間がかかった。一昨日友人と何時間も戦争や平和の定義や社会について、Zoomで話をした。自分の見解がとても狭かったと感じた。

今も何かを間違えている気がするし、学ぶべきことは果てしない。できれば指摘もされたくないし、頭が悪いとも思われたくないけれど、これは書き留めておかなくてはと思うことはちゃんと書いておきたい。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。