【第1章|天使と悪魔と(世界の?)真実】〔第1章:第2節|琴石九留見〕

 小さな光は徐々に強まり、辺りの空気を呑み込むように凝縮し、渦巻き、そして突如、眩い輝きを放つと、目を背けたり閉じたりした直後の私たちに向かって、炸裂した。
 悲鳴を上げる隙も無く。
 受け身や心構えの間も無く。
 無様に。無遠慮に。無造作に。
 私たちはみんな、その場から弾け出された。
 強い風と、投げ出される体。着水と水飛沫。
 綺麗な青空の下。
 不思議と痛みは無かった。
 呻く事さえも無く、私は伏せたまま顔を上げると、その先には結空ちゃんが、そのすぐ横には宴くんが倒れていた。もう一人――字名ちゃんは私の隣に。大きく乱れた前髪の隙間から、畏怖を露わにした視線を、真っ直ぐ前に向けていた。

 視線の先には、私たちみんな架空だと思っていた、かの生命﹅﹅﹅﹅――「天使」がいた。

 金色に輝く光輪が頭上に浮かび、空を遮るように大きく左右に広げられた、真っ白な翼。
 風に靡く金色の髪は、光輪と同じくらい輝いて見える。そして翼と同じくらい真っ白の肌を纏うのは、金色の縁の入った真白のローブ。
 そして人間離れして整った、しかし私たちと同じ感性的な美しい顔立ち。その目は閉じられているけど、髪と同じ金色のまつ毛は先端まで先鋭的で、その計算されたような、毅然的で威圧的な佇まいは、明らかな異質性を放っている。
 容姿の大体は私たちと一緒のその者﹅﹅﹅が、ゆっくりと私たちの前に降り立った。水面の波紋が逃げるようにして広がり、天使の降臨したその一帯は、ただの透明な地面だけになった。それも遠目から如実にわかるほど。
 ゆっくりと翼を閉じた天使は、閉じられていた瞼をゆっくりと開いた。
 純白真白の、しかし輝いて見える瞳が、私たち四人を見据える。

《――ようこそ、皆様方。大変お待たせ致しました》

 降り立ったこの生命体に性別があるかどうかは知らないけど、広がった青空の世界には、女性の声が響いた。
 ただ白い瞳。
 目力というには、あまりにも強い圧。強いプレッシャーを前に、不思議と恐怖はない。けれど、動く事も許されない。私、たぶん他のみんなも直感した――「この天使は本物だ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

《――この空間において『生命概念の欠損』はありませんが、降臨にあたり強い空気振動を発生させてしまった事は、謝罪させて頂きます》

 最初に宴くんが立ち上がった。続いて立ち上がった私は、彼と目が合う。
「薇さんを」
 宴くんは言うと、結空ちゃんに手を差し出す。私は頷いて、起きあがろうとしていた字名ちゃんの手を取り、肩から支え起こす。
 字名ちゃんは私の手を見て、自分の手を見て、それから私を見上げた。

「……な、な……なんで……ふ、触れれてる﹅﹅﹅﹅﹅ん、ですか……?」

 …………。
 …………ン?
「絲色……」
 前方から聞こえた結空ちゃんの声。
 字名ちゃんの驚愕の表情を前に、私は前にいる二人に向く。
 宴くんは結空ちゃんの傍にいたけど、結空ちゃんは床に座ったまま、私に驚いている。
「くるみ先生」
 絲色くんが訝しげに。
「は、はい?」
「なんで、さわれてるんですか?」
 …………。
 もう一度訊かれた。
 …………えっ?
 六つの瞳からの、驚いた視線。
 なんでって…………いやっ…………えっ?
「……さ、さわれるよ? 全然…………」
 その証拠として、私は字名ちゃんと手を合わせ、そのままその手をしっかりと握った。
 …………。
 どうして、みんな不思議そうなの? 
 ……私、なにかやっちゃった?
 驚いたままの宴くんが、私たちの前で結空ちゃんに手を伸ばす。
 ゆっくりと伸ばし――伸ばすだけ。
 …………?
 その……触れないの?

《――中々、面白い方々ですね》

 (たぶん)天使の声が響く。
 字名ちゃんが傍で、小さく「……あ、ありがとう……ございます……」と言った。たぶん、面白いと言われ事にじゃなくて、私にだ。この数時間、疑問は溢れんばかりの私たち。私は笑顔を返し、字名ちゃんの指を離す。そして手首を軽く掴むと、少し前にいる二人と合流する。
 全員が天使を見て、天使の次の言葉を待った。

《――全容の知り得ない状況において、凡その察しがつくと思われますがひとまず、幾つかの明言をさせて頂きます。まずは自己紹介を。
 該命がいめいは神の使いであり、天の使いであり、生と死の使いでもある、『天使』と呼ばれる生命存在にあたります。そしてあなた方は『第三次元』――我々が『人間世界』と称する次元において、その生命活動を完了﹅﹅させた事を明言致します。
 要約して言えば、あなた方は生物概念的に、死に﹅﹅ました》

 口は動いているけど、天使の言葉は空全体から聞こえている気がする。
 天使は表情一つ変えず、困惑する私たちに一礼した。上げられた顔は微笑んでいるようにも見えるし、見下してはいないであろうにも、冷たく淡白な面持ちにも見える。
 …………。
 ――――。
 ――――そして、私たちは死んだ。
 …………私たちは、死んだ。

《――完了された人生﹅﹅﹅﹅﹅﹅について――長らくもあり短くもあり、しかし複雑なる世界での、数多の困難と幸福の享受。――大変、お疲れ様でした。現在、あなた方は所謂『魂』と呼ばれる存在状態になります。不安定ながらも純粋無垢であり、個別の生命概念としての存在になります。
 そしてあらゆる生命概念は、本質的に魂に保有している「生」と「死」の概念により、次元内の宇宙を輪転りんてんするよう議定ぎていされています》

 ……難しい言葉がいっぱい。
 なんとなく理解出来るけど、天使の話す――響く言葉の、細かいニュアンスやフィーリングが、どこまで私たちの理解に沿っているのかはわからない。
 と、ここまで考えて気付いた――この天使、日本語喋ってる。

「……輪転りんてん? って、なんだ?」
 宴くんは天使相手に、堂々とタメ口で訊き返した。最近の子は怖い。

《――『輪廻転生りんねてんせい』とも言い、言葉の定義は諸説ありますが――死後、生前とは別の世界での一生を歩む、という概念を指します》

 つまり……、

「――あたしたちは、人生をまた歩むって事?」

 疑うような伺いを立てる結空ちゃん。
 困惑のこもった声は、たぶん少しの嫌悪も含んでいた。天使もそれを察してか、少しトーンの落ちた声を響かせる。

《――残念ながら、あらゆる生命概念において『輪転りんてん』は、生命性質上の義務﹅﹅となります。魂の分解及び浄化は、該命がいめいよりも高位存在である『かみ』以上の概念生命にしか、実現﹅﹅できません》

「……どうして?」
 結空ちゃんはめげずに訊き返す。怯んでもいないけど、肩に力が入っていて、気を張っているのがわかる。

《――始まりから、お話ししましょう》

 青空の世界が一転。
 私たちを囲むのは、全てが発光しているような真白で無垢の空間だった。私たち四人と天使以外は何も見えない。足もとからいつの間にか、薄く張っていた水面も消えていた。
 白い光の中、浮いたように立つ私たち。

《――生命概念の存在する『時空』は、複数の『次元』によって区分されています。その中でも『第三次元』は、『手足有系しゅそくゆうけい立姿型知的りっしがたちてき生命群せいめいぐん』――あなた方のような、人類﹅﹅やその近似種を含む、総称としての『人間﹅﹅』を文明主軸﹅﹅﹅とした、『人間世界』と称される次元になります》

 響く声はより深く聞こえ、私たちの周りには、ホログラフィック映像のように次々と、等身大と思われる『人間﹅﹅』たちが半透明で出現した。
 ――全身毛だらけの、半裸の猿のような姿。
 ――現代らしき服を纏っているが、見えている皮膚は黄色い鱗に覆われたような姿。
 ――身長が私たちの倍以上の、真っ黒で見上げなければならないほど、細長い体型の姿。
 ――目が三つあり、鼻の無い顔立ちの、尻尾を持つ腕の長い姿。
 ――全身に金属のような、細い角張った輪郭を持つ、光る皮膚を持つ姿。

 他にも、架空のどこかで見たような姿もある。馬の首から人間の上半身が生えていたり、下半身が鱗とヒレになっていたり、色白で耳が尖っていたり、赤い瞳に牙を生やした姿も。
 そしてその全ての姿は、どれも特徴的であれど、私たちと近しい姿だった。

《――文明を発展させるほどの知性と、それに付随する能力を有するのは『第三次元』においては『人間』のみ。種族別で個体差はあれど、『人間』以外の生命に関しては、元より発展しないよう設計されているか、別時空に存在するかとなっております》

 天使は両手をゆっくりと広げた。
 現れた無数の人類種――『人間』たちの姿が消え、代わりに、真白の虚空に星々が現れた。
 地球、太陽、月に始まり、太陽系ではない見た事の無い恒星や衛星が、私たちの周りで広がっていくように次々と出現し、渦巻いて――銀河を形成していった。真白の立体キャンバスは無数の星々の存在する空間――――『宇宙』へと広がっていく。

 ――でもこれは、私たちの知らない宇宙﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 白い宇宙。

 輝きに満ちた、無垢な場所。

《――元々『第三次元』の宇宙は、このように真白の宇宙空間﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅でした。『人間』という純粋で無垢な――当時は不変であり、完璧ではなくとも、完全な生命概念の居場所であり、人々は無限なる人生を謳歌し、互いを理解し、生命の循環を必要としない、あらゆる生命における完全な『理想郷』が存在しました。飽く事の無い永劫の宇宙。欠落の無い不変の宇宙。純粋無垢なる、最も尊ぶべき美しき楽園です》

 さっき見た『人間』たち。互いに、互いに向き合って。
 全員が普遍的と言えるような、意思はあるが無垢な――目の前で淡々と喋る、天使と同じような表情で、互いに手を取り合い、音も声も聞こえないが、何かを喋っている。
 笑いもせず、けれど退屈そうにも見えない。熱心だけれども、淡白に声を交わす。
 整った機能性――機械のような――――。
 ただ、それだけ。
「……これが、完全性﹅﹅﹅……?」
 宴くんが呟いた。私にも、正直不気味に見えてしまっている。

《――慣れない光景でしょうが、あなた方人間の以前の姿です。しかし――》

 白い宇宙の真ん中に、金色の輝きがゆっくりと降りてきた。私たちの目の前に降りてきた、小さく煌めくその一点は。
 小さな輝きとなって弾けると、左右に別れ、溶けるようにして消えた。

《――『第三次元』には、『例外的特異点れいがいてきとくいてん』という、別次元に干渉する可能性のある『概念』が発現しました。『例外的特異点』は、無数の時空を不安定にし、強く影響を与えてしまうような極めて異質的な概念であり、次元の管理者たる『神』は、『第三次元』の保持と安定、そして『例外的特異点』自体を封じておくために、『人間』という種族自体の、その根本組成を書き換えました﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 宇宙が回転し、星々の中がクローズアップされる。

《――神にとっては完全だった人間も、『例外的特異点』に対しては有効ではありませんでした。故に、現在の『人間』は完全性が失われており、引き換えに欠点や個性、才能や欲求などを有する生命となったのです》

 一転。
 私たちのよく知っている、現代人としての営みが現れた。
 発展した街があって、その中で食事をし、笑い合っている。その後ろでは、部下と思われる誰かを叱責する姿が。そのすぐ下の階では、カウンター越しに銃を突きつける強盗の姿。さらに流れていく景色には、戦争や環境破壊も。けれども、時折見える光景には、女の子の誕生日を祝う大家族、犬の出産、笑い合う者たち。楽しそうで嬉しそうな、幸福とも呼べる光景が広がっている。

《――バランス、という言葉をご存知でしょう。秩序、均衡、調和――しかし、神の管理する『第三次元』は『完璧』という絶対的で反抗的な乱数によって、そのバランスを失いました。故に『例外的特異点』が発現し、故に均衡は『強大な無限』と『無数の有限』によって成り、故に調和性は崩壊し、『第三次元』はあらゆる次元において、ある種最も危険的﹅﹅﹅な次元となりました》

 ……。
 …………。
 難し過ぎて、正直全然わかんなかった。
 ええっと……完璧は良くないよ、で、『例外的特異点』っていう――バグ? みたいなのが発生して…………みたいな?
 我ながら情けないと思いつつ、チラリと三人を見る。……みんな、なんとも言えない表情を浮かべていた。

《――『例外的特異点』は不干渉性が強く、神でさえも、その存在性を操作できません。対抗策として、神は『人間』に不完全性を組み込み、『第三次元』を多層化する事によって、輪転りんてんの性質――『「生」と「死」による循環』が誕生しました。同じ次元に、宇宙空間とは別の時空が創造され、生命概念はその複数の次元間を往来する事で、『第三次元』をより複雑化し、現在に至るまで、『例外的特異点』を封じる事に成功しました》

 白い世界の街の中で、生命活動を営んでいた者たちが次々と倒れていき、まるでゲームのキャラクターのように、微少な粒子となって消えていった。その小さな粒は街の上に向かい、空の上で再構成される。
 魂。
 例外的特異点。
 宇宙。時空。
 小さなぼやきが聞こえた。
「……スケールが大き過ぎて、あたしにはよくわかんない」

《――簡潔に言うならば、階層﹅﹅のようなものだとお考えください。あなた方はこれまで三階の一室にいました。そして、死んだ今は三階でも、別の部屋にいます》

「学校みたいな? 三年一組が生前。死んだら二組に移動する。二年生や四年生は『人間』とは別次元、みたいな?」
 お! なるほど、ちょっとわかりやすいかも。……宴くんは凄い。
 私の方が歳上だけど……成り行きは任せても良いかなぁ。
 私は感心の眼差しを送る。
 天使はゆっくりと頷いた。

《――とても良い例えです。そしてその影響により、元は白かった宇宙の『時空を区分する障壁』が、その純粋無垢性が侵され、あなた方のよく知る闇のような暗黒へと染まったのです》

 真白の空間に「黒」が広がっていき、よく知る宇宙光景へ。

「なんで、『人間』なんだ? ……例えば、昆虫とかじゃダメだったのか?」

《――神は最初、自らの使いとなる『天使』を創りました。その際その姿を、神と非常に酷似した生命概念として創造し、さらに『人間世界』の原初の生命概念である『人間』は、その特性と本質を受け継ぎました。以降、遥かなる時間が経ちましたが、その影響が残っているのが『人間』だとお考えください》

「えっとさ……」
 頭の中がこんがらがってきちゃった私は、気付いたら口を開いていた。
「『人間』と、『人類』と……あとは、私たち? が、わかんなくなっちゃった。細かい定義に違いがあるなら、それを教えてもらってもいい……ですか?」
 真正面から天使を見据えると、胸の奥底が全部染められたような感覚がした。
 怖いというよりも、透き通るような――自分の中の異物感や邪念が、雑音や騒音が消し飛ばされて失っちゃったような。特段気持ち悪くはないけど、今の状況では、奇妙で複雑な心境になってしまう。

《――『人間』とは、『手足有系立姿型知的生命群』の総称です。私は今、あなた方との知的言語疎通のために日本語での対話を行なっているため、言葉上は、本質的な定義と多少差異がございますが、手と足があり、立っている『人』、もしくは『ヒト』と称され、分類される生物の事を総じて、『人間』と指します。『人類』とは、その中でも物理概念との共生を主軸とした最初の『人間』の事であり、特殊性や派生的な由来の者ではなく、それでいて過去においては、純粋無垢だった種族の一つを指します。今この場においては、あなた方――うち三名﹅﹅﹅﹅は、『人間』の中でも『人類』となります》

 なるほど。
 私たちは大分類では『人間』、小分類では『人類』になるのね。
 ……。
 …………待って。

 ――うち三名﹅﹅﹅﹅

「――一人、『人間』じゃない?」
 結空ちゃんの声が、上擦って聞こえた。
 天使はゆっくりと右手を真っ直ぐ伸ばす――私の隣に。

 その指先は、小さくなって隠れるようにしていた――字名ちゃんに。
 しっかりと示されていた。

《――『人間』の範疇ではありますが、その者は『人間世界』でも『天界』でも珍しい、魂に悪魔﹅﹅が混ざっている者になります》

「……悪魔?」
 全員が字名ちゃんを見た。字名ちゃんの性格を考慮すれば、注目されるのは本当に可哀想だったけど、それでも見ざる負えなかった。

《――稀有けうな事ですが、全く例が無いわけではありません。『天界』は大きく二分して、『天国』と『地獄』に分かれます。そして悪魔は、天使の生命概念とのバランスを取るために創造された、地獄由来の生命概念です。人間の魂に宿る事例も、過去には無数に発見されてきた事です。『人間』と『悪魔』の『混在ハーフ』――その定義は『半魔はんま』と称します》

 字名ちゃんは私を見上げた。
 髪の隙間から見えている丸い目。戸惑いが助けを求めているように見えて、私はそっと抱き寄せてみる。教師(見習い)としては、女子生徒との身体接触はどうかとも思ったけど、まあ死んでるらしいから、誰に請えば良いかは知らないけど、許してもらおう。あと単純に、ほっとけなかったし。
 悪魔。半魔。
 この小さな女の子が?
「あんた……知ってた?」
 結空ちゃんの問いに、字名ちゃんは小刻みに震えながら首を横に振った。
「……説明を」
 宴くんが、天使に静かに言った。

《――では見せましょう。これから必要になる﹅﹅﹅﹅﹅と思いますので》

 天使は細く綺麗な指先に握るような動きをさせ、腕を胸の前で交差させてから、しなやかに開いた。
「っとぁッ!」
 勢いがあったようには見えなかったけど、私と宴くんと結空ちゃんはそれぞれ、有無を言わさずその動きに合わせて、白い地面を左右に滑らされた。私一人だけ声が出た。なんか恥ずかしい。
 さらに、真白の虚空が晴れ渡り、再び青空が戻る。
 空の世界はやっぱり綺麗だったけど、一人真ん中に残された字名ちゃんは、かなり居心地が悪そうだった。

《――少し、痛むかもしれません》

 閉じられていた翼が開き、天使は字名ちゃんに向かってひと羽ばたき。
 天使から放たれた、何か金色の風のような流れが送られる。こういうとき、魔法や神秘的な要素のある映画では、金色の粉の表現が多い。でも、字名ちゃんが浴びたのは風だった。
 目に見えるほどの、金色の息吹﹅﹅
 その息吹﹅﹅が触れた刹那。

「……ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」

 頭を撃たれたように突然、空を見上げた字名ちゃんが、絶叫した。
 「身を裂くような」という表現がまさしく、両腕を真横に投げ払うように広げ、内臓を全部吐き出すかのように口を開けて。
 苦悶。雄叫び。
 息吹﹅﹅
 助けに行きたかったけど、私はその声の圧に負けて動けなかった。私以外も。
 字名ちゃんは叫び声と同時に、全身からなにか﹅﹅﹅を溢れさせた。
 口からは黒いドロドロを吐き出し、胸の真ん中からは蜘蛛の巣のような棘を突き出し、骨折みたく途中で折れたその棘は、その先端を自分の脇や肩に突き刺していく。肩越しからは平たい角張った棘が解き放たれるように背中から飛び出し、両手の先からは黒く長い爪が、腕よりも勢い強く突出する。
 ――小さな体に宿していたにしては、あまりにも哀れに思えるほど。
 ――黒い泥に塗れ、瘴気を溢れさせる。
 絶叫が悲鳴に変わり、咆哮へと――そして嘲笑にも聞こえ始めかけた時、

 天使からの息吹が止まった。

 色々と解き放たれた﹅﹅﹅﹅﹅﹅字名ちゃんは、その場で立つ力を失い、顔から前に倒れた。
 見ている事しかできなかった私たちに、天使は静かに口を開いた。

《――天使と悪魔は、元来対極の存在です。表と裏、白と黒――互いのバランスのために存在し、不干渉ながらも協力関係にあります故、互いの真核的な本質には敏感に反応します。それも、『第三次元』では体現化されなかったとしても、この空間や『天界』では特に、です》

 駆け寄って良いものか三人で顔を見合わせると、黒い泥溜まり﹅﹅﹅﹅になった字名ちゃんの、その背中が大きく浮かび上がった。黒いもやを撒き散らしながらも、その輪郭が見え始める。
 ちょうど肩甲骨の間から生えている、未完成の翼のような部位は、ひとりでに動くと、その先端を地面に突き立てた。字名ちゃんの体を吊るようにして、翼がゆっくりと彼女の体を起こす。
「…………薇、さん?」
 宴くんが慎重に訊く。
 肩で息をしていた字名ちゃんは、ガクンと、その黒い顔を上げた。
 黒いドロドロがボタボタと、指先や顎の先から落ちていく。徐々に露わになっていくその全容は、確かに『半魔』と言えそうな姿だった。
 綺麗に揃えられていた前髪は、汗か泥かに塗れてしまい、大きく乱れている。その隙間――こめかみからは十数センチほどの角張ったツノ﹅﹅を生やし、控えめに見えていた顔の上半分は、今やはっきりと窺える。
 横からでも見えるほど強い、赤黒い瞳から放たれる眼光。目の端からは、涙のような黒い流れが、刺青のように顎先まで流れている。
 白いローブは大部分が、原料不明の「黒」に上塗りされ、よく見ると肘や指先は、そのドロドロが固まっているようにも見えた。
 背中の肩甲骨辺りからは、本人の身長ほどはあろう翼が。ローブの腰の部分も突き破られ、細長いらしき部位も見えている。
 一瞬、天使を睨むように見た字名ちゃん――は、今度はそのまま後ろに倒れた。
 透明な地面に倒れた衝撃で、全身の黒かった部分が弾け、そのまま消える。その黒い靄と泥たちは消え、一気に元の字名ちゃんに戻った。可愛らしい小柄な女の子は、寝顔を見せるように目を閉じ、投げ出した手足の真ん中で、慎ましやかな胸が浅く上下している。

《――最初は疲れるものです。少し浄化と休憩を》

 天使は今度、左腕だけを伸ばす。
 ひと筋の風。今度は視認できない。
 字名ちゃんに当たると、乱れていた髪が綺麗に。かいていた汗(または固まった泥?)も消え、険しさを残した表情から力が抜けた。服も、綺麗さっぱり元通りだ。
 ゆっくりと、その目が開いた。
「……大丈夫?」
 私が傍に駆け寄ると、字名ちゃんはすぐに上体を起こした。
「……ジ……」
「ジ?」
「……ジェンナ…………」
 字名ちゃんは、安心したように微笑する。
 ジェンナ? ジェンナって……何? 
 知ってるのかな? と思って、私は宴くんと結空ちゃんを見る。
 二人とも知らないみたい。もしくは聞こえてない? ――私たちの知らない、悪魔語かな?
「起きれそう?」
「…………あっ…………は、はい…………」
 私の手を借りつつも、字名ちゃんは殆ど自力ですぐに立ち上がった。
「――悪魔だから、さわれる……?」
 結空ちゃんが呟いたのが聞こえた。その仮説はあり得るかも。
「わぁ!」
 と、立ち上がった字名ちゃんの背後から、黒い影が出てきた。
「すごいね、それ」
 私の目が捉えていたのは、字名ちゃんの背中から生えているソレ﹅﹅。今度は、ドロドロとはしていない。
 翼――――禍々しい二つの翼と、一本の細長い尻尾。
「あっ! えっ……ど、どうすれば……」
 自分の意思では無いらしい。「さわっても良い?」と訊こうと思ったけど、その怯えようを見て、今はダメかもと判断する。

《――出しっ放しでも健康上の問題はありませんが、『天国』では目立ちます。今はともかくとしても、これからは意識して納める﹅﹅﹅感覚を身につけるべきでしょう。翼や尻尾ではなく、自分の『人間』の部分を意識してみてください》

 字名ちゃんは不安そうにしていたけど、目が合った私は頷いてみせた。それくらいしか、できる事がなかった。
 神頼みでもするように、字名ちゃんは胸の前で両手を握ると、目を閉じる。縮こまった肩を震わせ、一生懸命に顔をしかめていると…………、
 シュヴォン!
 小さく爆ぜるような音がして、翼と尻尾が消えた。
「これからって、具体的になに?」
 結空ちゃんが宴くんと傍に来て、天使に訊いた。

《――あなた方の人生は一度、『第三次元』にて完了を迎えました。しかし『人間』はその性質上、満足する人生を送れない者が多く、神は創造した生命概念を、後悔や遺恨を抱かせたままその数多を消滅させる事に否定的です。また、たとえ満足して完了していたとしても、それは潜在認識の制限下にある者が多く、本来なら、もっと多くを望む事のできる生命です》

 天使が告げるのは、命有る者の宿命。

《――あなた方には一度閉じられた物語の、その続編﹅﹅となるような、新たな人生を再び歩んで頂きます》

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