黒澤明『夢』感想

学生時代書いた感想の再校です。

 Dreams (夢, Yume ) Akira Kurosawa 1990(120分)

『日照り雨』
 音楽が印象的。嫁入り行列の様子が怖かった。終わり方も「夢」らしく、最後どうなるかもわからず、中途半端なまま終わる。狐は、童話や神話でもよく見る動物であり、神の使いとして描かれることもあれば、悪戯をするずるがしこい獣や妖怪として出ることもある。今回『日照り雨』の音楽や描写から感じ取ったのは、神獣としての狐であった。のぞき見した子供は、人が見てはいけないものを無断で垣間見たことで狐の怒りを買っていた。特に悪意をもったわけでもない子どもに対して自刃せよというのは残酷すぎやしないかと思ったのだが、それも神側には関係のないことなのだろう。
また、画として、狐の家に向かう光景が印象強い。花々が咲き誇り、一見美しく見えるが、奥の山々には影があり、おどろおどろしい雰囲気を感じる。虹の向こうに日は指しておらず、私だったらきっと立ちすくんでしまう。山と言えば神聖な場所であり、今後少年の行かねばならない場所が人里とは異なることを表しているのだろうと思う。この話から日々忘れがちである神への畏怖を感じた。

『桃畑』
 日本的な雅楽ベースの楽曲から、伝統的なクラシックのような音楽に変わる。一瞬の桃の花たちは、空想なのか、雛人形たちの祝福なのか。いずれにせよ、桃の木を切ってしまった一家に「ひなまつり」が訪れることはもう無いのだろうと思った。段々畑(?)がセットなのかロケ地なのか分からないが、雛人形たちのあるべき場所に見立てた様は美しく、本来人と自然は一体であることを感じさせられた。

『雪あらし』
 遭難した男性陣。もう命は無いのだと悟った瞬間、女性のアリアが流れ、雪女が登場する。「雪は温かい。氷は熱い。」と話しかけながら、登山者にやさしく毛布を掛ける。しかし、吹雪が吹いた後に異質な姿になり、飛び去って行く。
 今回出てきたのは、昔話でよく見る雪女ではなく、ローレライやセイレーン的な存在だと考えた。「寝たら死ぬぞ」と冒頭で主人公が言っていたことからも、眠らせて殺すつもりのように見えた。美しい姿で慈悲深いのは仮の姿である。その証拠に、主人公が気を戻すと怪物のような恐ろしい姿に変貌する。この変貌の描写が面白かった。現代であればCGが使われると思うが、この映画ではカット割りやメイクで変貌する様を見せており、生々しさがよかった。変に浮世離れしておらず、自分のいるこちら側でも、画面の向こうのフィクションでもない中途半端さが生まれているからだ。
 
『トンネル』
 戦死した兵士らは、自分が戦死したことを受け入れられずトンネルに留まり続けている。大三小隊の体調である主人公は、いまだ罪悪感に苛まれている。これは、罪悪感から主人公が見続ける夢である。「帰れ」「静かに眠ってくれ」という言葉を投げかけるも、戦死した兵士らは戦争の高揚感を思い起こさせるラッパのもとへ向かう。
 いくら主人公が説得しても、戦死した兵士らは成仏することはなく、戦争をしていたあの時に戻ってしまうのだと解釈した。「夢」は、科学的には脳が記憶の整理をする際におこる現象だと言われている。しかし、霊的なものとしてもしばしば取り扱われる。つまり、この夢は主人公の罪悪感・地縛霊となった戦士らの恨みのふたつともかかわっているのだと考えられる。
 もうひとつ感じたのは、トンネルの怖さだ。トンネルは現代でも心霊スポットになることが多い。実際、トンネルを車で走っても、湿気ており、出入り口がひとつしかない閉塞感には息が詰まりそうになる。舞台としてトンネルが選ばれたのも、その詰まりやすさにあるのではないかと思う。
 
『鴉』
 ゴッホの絵画を鑑賞する主人公。「アルルの跳ね橋」の中に飛び込み、ゴッホに出会い、彼についていく。そうして、鴉と絵画の関係性を垣間見る。印象に残ったのは、色彩の美しさだ。ゴッホの描いた世界、実際に目にしていたかもしれない世界をこれでもかというくらい再現しており、見ていて楽しかった。
 これは、鑑賞体験を映像に起こしたものだと思った。鑑賞の際、絵画との対話、作者との対話を通し、鑑賞者を別世界に導く。しかし、あるときふっと現実に戻される。その時に、別の世界と自分のつながりを感じ、すこし心がほっこりする。色彩がやたらと鮮やかなのは、タイムスリップではなく、絵画との対話であるからだと解釈した。

『赤冨士』
 富士山が大噴火し、原子力発電所が爆発を起こす。市民は混乱し、逃げ惑う。天才的な科学者が、放射能に色を付ける技術を開発したが、大災害の中では何の意味もなさなかった。
 タイトルの「赤富士」は、有名な浮世絵ではなく、噴火した富士山の様であったのが意外だった。明らかに反原発のメッセージがメインに据えてある。どう考えても3.11が思いうかぶ。放射能は、無差別に何万人もの人々を襲った。責任の所在はあいまいで、誰が罰せられることもなく、ただ大勢の人が被害を受けた。技術の発展がどうあるべきか考えよという思いを感じた。
 
『鬼哭』
 原水爆によって荒廃した世界で、男は一人の鬼と出会う。鬼によれば、「今この地球にまともな自然はない」らしく、放射能の影響で生きとし生けるものは奇形になったらしい。それは人間も例外ではなく、鬼も「昔は人間だった」と語る。また、鬼たちには階級があり、人間だった時の権力で決まっているという。食料が無いため、鬼たちは共食いをしていおり、弱い順に食われる。つまり、鬼であることの苦しみから先に解放されるのは弱き鬼たちで、地位の高い鬼は、死にたくても死ねない状況だ。案内した鬼もまた苦しみ、男は鬼から逃げるのだった。
 本作は短編集であるが、これについては『赤富士』に続く物語なのかなと思った。科学技術によって人間や地球が破壊されていくところが似ているからだ。これもまた反自然を問題視するメッセージを含んでいるのだろう。また、食品ロス問題も提示されている。「食べのものを無駄にした」と嘆く鬼を見て、「自分がもし鬼になったとき、同じことを言わないだろうか」と思った。失って初めて気付く大事さがあると分かった。

『水車のある村』
 自然豊かな風景が美しい一方で、少しこの世のものではない怖さがあった。死は素晴らしいという人生賛歌だという声が多いようだが、私には異質さが印象に残る。特に気になるのは、最後のパレードで使われた楽器だ。 「電気もガスも使わない」というと、原始的な暮らしに立ち返る=古き日本の農村の暮らしを想像した。しかし、印象的な最後のシーンではチューバやホルンなど西洋のものを使っている。また、棺桶を担いで警戒にステップを踏むさまはアフリカの葬儀にも似ており、様々な地域の文化が入り混じっていることに違和を感じる。原始に戻るのでもなく、独特の死生観を垣間見るようで、ワクワクすると同時に怖さを覚える。
 これをみて思い出したのは、ジブリ映画『かぐや姫の物語』で、天からかぐや姫を迎えに来るシーンだ。帝らを攻撃するわけでもなく、ただ無に帰すだけだった。この場面では、喜怒哀楽から怒りと哀を抜き取ってしまったような、明るいのにどこか欠けたアンバランスさを感じた。この話の最後の葬儀にも同じものを感じとっている。そう考えると、少し人工的にも見える自然も高天原に近い場所であるように見えた。
 

まとめ
 黒澤映画をしっかりと見たのは、これが初めてだったが、見た中で感じた魅力は、淀川の言ったように間と音楽とのマッチである。今回課題として取り上げられた「夢」は、何かメッセージがありつつも、非現実的で頭がぼんやりしてしまう内容だった。その感覚をもたらした原因は、独特の間にあったと考える。特に、はじめの『日照り雨』が気に入った。たとえな、長尺で取られた嫁入り行列のシーン。いつまで続くのか・これからどうなるのか分からないような危うさを感じたのは、状況説明以上に長い時間であったからだ。また、神聖さを感じさせる音楽にもふわふわしてしまい、まさに長い夢を見ているような感覚だった。この演出のために、黒澤自身がメイクや演技指導に力を込めていることも伝わり、様々な目線から映画を見つめることが出来て興味深かった。

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