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生きることの難しさを痛感させられる良作  

はじめに

こんにちは、あるいはこんばんは、ひかっちゃです。今回はシリーズ化していた子供関連の記事に一旦休憩を挟み、久しぶりに良作と感じた映画の感想を書いていこうと思います。今回観た映画はゴジラ-1,0です。ゴジラの映画はハリウッドのものも含めて過去にも何作品か観てきましたが、正直このゴジラ-1,0は僕の中で圧倒的です。と言っても、今回の作品はこれまでのものと比べると一風変わったものになっているため、比較するのは難しいです。皆さんには、ゴジラ作品の中で僕が一番気に入ったものに過ぎないということを理解した上で読み進めていただければ幸いです。

*今回の記事は、皆さんにも観てほしいという思いで書いてもいますので、できるだけネタバレは含まないよう配慮はしましたが、感想を書く手前、ネタバレ0はどうしても不可能なため、事前知識を持つことに抵抗がある方はお引き取りください。(こいつ普通にネタバレするから嫌な奴はマジでやめとけよ?)言い忘れていましたが、今回も僕の二重人格目、うらっちゃとともに記事をお届けしていこうと思います。(よろしくなー)




今作のゴジラってどんな感じ?

まずは映画の予告動画を載せておきます。ぜひ一度ご覧ください。



戦後の日本人には、今作で描かれる終戦間近のアメリカとの戦闘に対して、軍人にも民間人にもそれぞれ心の底にひっかかっている心の傷やわだかまりのようなものがあったことだろうと思います。たとえば、激しく弾の飛び交う戦場から自分だけ生き残ったことや、空襲で家族を助けられなかったことへの悔恨、国のために命を懸けることへの疑問、国と軍の統治に対するいいようのない怒りや悲しみ、戦争への言葉にできない悔しさなど。劇中にはそうした思いの数々がにじみでています。

 そんなボロボロのなか、ゴジラという新たに現れた敵に対して、国や軍に統治、強制された戦争ではなく、市井の人々それぞれが考えて道を探して力を合わせ、大いなる脅威に対して納得して立ち向かうことで乗り越える。それは、戦後の日本人が、戦争で残した心のつかえを取り除き、心の傷を癒やすための命をかけた戦いになります。

 当時の人々が戦争に対して心のなかでこうあってほしいと願った戦いを再びやり直す。それによって安寧を得てほしい。今作のゴジラと人間との戦いには、そんな山崎貴監督の願いが込められているように感じました。




これまでの作品との比較

近年の『ゴジラ』作品は、2000年代に入って興収が伸び悩んでいたところ、前作の『シン・ゴジラ』(82.5億円)が大きく変えました。従来のゴジラの枠組みを超える解釈による、革新的だった作品性への驚きと評価は大きく、今作の脚本、監督を務めた山崎貴監督への重圧はとてつもなく大きかったことでしょう。どうしても前作との比較の声は生まれ、前作超えを期待されていました。

 しかし、同じキャラクターを扱うシリーズでありながら、それぞれの監督のカラーがあまりにも強く全面に押し出された両作は、比較のしようがないと思います。どちらがおもしろいかは個人の好み次第になるためです。ただ、ある種ハリウッド的、イベントムービー的なスペクタクル感のある大迫力映像の作品が好まれる昨今の若い世代には、今作のほうが合っているかもしれません。

僕個人としては前作の政府のグダグダ感を示唆するものよりも、今作の絶望からもがき苦しむ姿が、予告通り「生きて、抗え」という感じがして好きでした。ただエヴァンゲリオンも大好きなので庵野監督、僕のこと嫌いにならないでください。(そもそもお前のことなんて認識しとらんわ)




皆さんは生きるという選択肢が取れますか?

では、今回僕が記事にしたいと感じた最大の理由でもある、『生きる』というキーワードについて書いていこうと思います。なぜゴジラ作品からこのような深いキーワードが出てきたのかと言うと、今作には主に二人の登場人物にスポットライトが当たっていて、ストーリー性が強い作品となったからです。それが神木隆之介さんが演じる敷島浩一と、浜辺美波さんが演じる大石典子です。

物語の序盤、二人は空襲の影響であたり一面焼け野原になった日本で出会います。戦争から帰ってきたら家族全員が亡くなっていた浩一と、空襲から逃げる際に見ず知らずの赤ちゃん、あきこを託された典子。初めは文句を言いつつも、なんだかんだ二人のために仕事を頑張ってくれる浩一に、典子はとても感謝し、あきこと典子は浩一の精神的支柱となっていました。

時は経ち、あきこも成長してきたタイミングで、典子が復興しつつあった銀座で働くことになったと告げます。それを浩一は渋々受け入れるのですが、ある日、典子が職場に向かうため電車に乗っていたところ、奴が現れるのです。家であきこと遊んでいた浩一は、ラジオでそのことを知り、急いで銀座に向かいます。典子がもうダメだと諦めかけたその時、ギリギリ浩一が間に合い、二人で逃げるのですが、戦車の砲撃に痺れを切らしたゴジラは、ついに熱線を放つのです。直後、ゴジラを中心に凄まじい衝撃波が広がり、典子が浩一を建物と建物の間の方に思いっきり押します。何が起きたのか状況整理に戸惑う浩一、気づくとそこに典子の姿はありませんでした。家族に続き、最愛の人まで失った浩一は、またしても絶望します。

武力放棄の命により政府が動けない中、民間でゴジラ討伐の話が持ち上がっていることを知った浩一は、その作戦の説明会に参加します。今回の作戦は戦争の時と違い、強制ではなく任意となるため、中には途中で退出していく方もいましたが、「誰かがやらなきゃならねぇなら、やってやろうじゃねぇか。」と、最後まで残ったメンバーで作戦を決行することに決まります。それぞれがそれぞれの意思で戦うことを決意するのです。

訓練兵時代にエリートパイロットとして名を馳せていた浩一ですが、実は神風特攻隊として出撃するも、途中で怖くなり、機体が故障したと嘘をついて逃げ出した過去をもちます。そのような戦時中の浩一を知り、よく思っていいなかった凄腕の整備士に、今回は差し違えてでもゴジラを討伐するという旨を伝え、「僕とあなたの戦争を終わらせましょう。」と、あえて機体の整備を依頼するのです。また、浩一はもともと積んであった機銃を一部爆弾に変えて欲しいとも伝えました。覚悟を決めた浩一の姿を見た整備士は、言われた通りに機体を調整するとともに、脱出装置も取り付け、作戦決行の前夜、憎んでいた浩一に対し、「生きろ。」と言います。

己の過去を引きずり、生きる希望を失しなった浩一は、典子との出会いを通してもう一度生きようと決めた矢先、またしても絶望の淵に立たされて、自分はやはり生きてはダメなんだと思っていました。しかし、整備士の思わぬ一言に、もう一度生きることを決意するのです。

そして、映画のラストシーンでは、奇跡的に生還し、入院していた典子と、作戦を遂行し、また生還した浩一が涙の再会を果たすのでした。

僕の今までの人生では、生きることよりも死ぬことの方が圧倒的に難しかったですが、もし、浩一と同じ境遇に立たされたら、生きようと思えるか、自信がないです。しかし、それでも諦めずに生きたからこそ、最後に再会を果たせたのですから、浩一はすごいですよね。ただ、実を言うと、映画の終わり方には賛美両論あるのです。確かに、映画的には典子が死に、浩一も戦時中に果たせなかった特攻を成し遂げゴジラと相打ちになることで、より感動が生まれるからだとは思いますが、僕はやっぱり生きた浩一を褒めたいですし、山﨑監督が伝えたかったメッセージもこの部分に集約されているのだと思いました。




まとめ

皆さん、いかがでしたか。今回は初めての映画の感想記事となりました。このように作品の感想を記事にする気は全くなかったのですが、あまりにも共有したい欲が強過ぎたのか、気づいたら書いてしまっていました。(なわけあるか、ネタに困っていたと正直に言え)

また、ゴジラ-1,0の公式サイトを貼っておきます。紹介したものも含め、YouTube動画やコラボレーションなどがまとめて見れるようになっていますので、気になる方はぜひチェックしてみてください。


今回、皆さんに伝えたいことは、別に頑張って生きようなんてことではありません。逃げずに辛い選択肢を選ぶ強さ、勇気をもちましょうと言うことです。確かに逃げることは大切です。何なら逃げた方がいい時だってあるでしょう。でも、皆さんの一つ一つの行動が、いくつもの異なる未来を生むことを自覚してほしいのです。あと一歩踏ん張る辛さは計り知れません。なぜなら、その踏ん張った先に何が待っているのか、そんなこと僕たちにはわからないからです。でもわからないからこそ、人生は楽しいのではないでしょうか。もちろん、この「楽しい」には、いいことばかりではありません。出来事を断片的に切り取ったら悪いことばかりでしょう。しかし、その出来事も長い目で見ればいい経験なのです。崖っぷちに追い込まれたとき、どうせならあと一回足掻いても良くないですか。どれだけダサくても、死にかけでも、首の皮一枚繋がれば、何度だって人生は楽しめるのだから。


支えてくれる人がいなくても、踏ん張りたければ一人で踏ん張ればいい。いつだって踏ん張る土俵だけは、皆等しく、平等に与えられている。
                         by 今日の俺



これなんや