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映画 「カポーティ」(2006年公開)

個人的所感によるあらすじ

1959年11月15日、カンザス州ののどかな田舎町で一家4人惨殺事件が発生する。翌日、ニューヨークでこの事件を知った作家カポーティは、これを作品にしようと思い立ち、すぐさま現地へと取材に向かう。同行した幼なじみのネルと共に事件現場や関係者を訪ねて回るカポーティ。やがて2人の容疑者が逮捕されると、カポーティは彼らへの接近を試み、その一人ペリー・スミスにうまく取り入ることに成功する。「友人」という言葉を巧みに使いペリーとの面会を重ねる中で次第に彼の信頼を得ていくカポーティだったが・・・・。

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ちょっとネタバレな感想

トゥルーマン・カポーティと言えば、なんといっても「ティファニーで朝食を」。超人気作家でありジェットセッターの走り、今の言葉だと”セレブ”というところか。

そんな彼の作品のひとつに、ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り拓いたと言われる傑作『冷血』がある。この作品を発表後、なぜか彼はその後一切作品を発表しなかったといういわくつきのもの。
その『謎』をテーマにしたのが本作だ。


なんといってもカポーティの複雑な人物像を巧みに演じきったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技なくしてはこの作品は成立しない。
センセーショナルな事件を扱うことによって新たな成功を目論むカポーティの嫌らしさ、そして立ち回りのうまさ。甲高い声に漂う自己顕示欲と仕草に漂う女性に対する微妙な嫌悪感と距離感。(彼は同性愛者であったことでも有名)
まさに”お友達になりたくない候補ベストスリー”には確実にランクインしそうなリアルさ。アカデミー主演男優賞をとったのも充分うなずける話である。


そして彼の取材に協力する犯人、ペリー。彼を一言で表すなら「弱い人間」だろう。

弱い人間は、常に自分の弱さをエクスキューズにする。体育の授業が嫌で休む言い訳を二個も三個もひねり出す子供のように、自説を振り回し、客観的な意見を排除し、自分にたてつくものは意見だろうが人間だろうが攻撃をしなければ気が済まない。基本的に自分しか見えていない、自分至上主義なのである。いくら外見がなよっちく弱い存在に見えても、その系統の人間は必ずそういうどう猛さを隠し持っている。ペリーもまたしかり。

それで自分一人で生きていってくれるなら、社会的な問題は発生しないのだが、そういう人物は見えるものしか信じないから自信も欠けていたりする。だから自分をかまってくれたり自説に賛成してくれる人間は絶対に必要で、そんな人間を見つけたら最後、離れようとはしない。

そう、まさに”寄生”である。

誤解を招かないように書いておくが、弱いことはけして悪いことではない(と思う)。というより弱くない人間などいない。弱い自分を理解してそれを克服しようとするならば、それはとても素晴らしい人生の起爆剤になる。

けれども「弱いんだから許される」という言い訳にした時点でそれは”マイナス”になってしまう。貧乏な人がみんながみんな泥棒をしないのと同じように、そこには理性が介在する。それが人が人であるための唯一のファクターであり、それがなければ形が人間でも、本能のみの”動物”でしかない。そんな理性を弱さに食われてしまった”動物”が、人の世に波紋を呼び起こすのだ。

同性愛者であり数々のスキャンダルで知られたカポーティは、自己顕示欲で自分を保っていただろうことは想像に難くない。けれども本当はきっと弱い人間でもあったのだろう。だからこそあれだけの努力をし、社交界の頂点にまで上り詰めた。
野望をかなえるために友情という餌をちらつかせてペリーに近づいたカポーティは、結果的に自分の弱さや良心を剥き出しにされてしまったのではないだろうか。

あくまで想像上のドラマである本作品だけれど、もしこのようなことが実際に起こったのだとしたら。

「友人」という言葉と共に、ペリーはカポーティを食い尽くした。
ペリーは既に殺人を犯していたけれど、そのうえカポーティの『才能』も殺した。弱さという刃を武器にして。

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