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映画 「ワン・デイ 23年のラブストーリー」(2012年公開)

個人的所感によるあらすじ

1988年7月15日、エマとデクスターはカレッジの卒業式に初めて言葉を交わす。ひょんなことから一夜を共にした二人だったが、これからも良き友人でいようと約束する。

労働者階級のエマは自分なりの夢を描き、一方、裕福でハンサムなデクスターは気楽で華やかな人生を歩んでいく。
二人の友情関係は7月15日に会うことで続いていたが、テレビの司会者として有名になっていくデクスターと地道に生きるエマのそれぞれの生活はだんだんかけ離れていく。
やがて二人はそれぞれのパートナーを見つけ、デクスターは結婚。
しかし、彼の成功は脆くも崩れ去り、人生の壁にぶつかってしまう。そんな中エマの書いた小説が出版社に見出され・・・。

ちょっとネタバレな感想

相手を唯一無二の存在として認識するのなら、親友と恋人とはいったいなにが違うのだろう。

エマとデクスターは大学を卒業する「7月15日」に出会い一夜を共にし、
いわゆる最後までには至らず、親友として付き合っていく道を選ぶ。

本作は彼らは23回の(正確には20回なのだけど)「7月15日」を淡々と描いていく。
その中で彼らはそれぞれ人生を歩んでいきながら、生きる世界も階級も何もかも正反対であるに関わらず、その長い時間軸の中でずっと心を許し合っているようにしか見えないし、だからこそ辛辣に時には喧嘩し泣いて慰め合い、相手の幸せを思いあっているように見える。

それぞれのパートナーと別の人生を歩みながらも、ずっとだ。
これは本当に友情なのだろうか。それとも恋か、それとも愛なのか。

名作漫画「ハチミツとクローバー」(羽海野チカ作)の中で花本先生がこんなことを言う。

「上手いコトバが見つからないんだよ。原田も理花も恋人とも友達とも違った。ただ大事だったんだオレにとって。」

代名詞に置き換えられない、けれども何にも変えられない大事な存在。

たぶん、恋を「相手の心を欲しい」という、どちらかというと自分のための熱病であると仮定するなら、失う怖さで人の足はすくむことだろう。
特に最初の頃のエマはその状態だったし、だからこそ転落していくデクスターに
「愛しているけど好きじゃない」と言い放つ。

心から信頼しているからこそ、拒否される恐怖や嫌われるリスクを乗り越え、自分をぶつけることができる相手を「親友」と呼ぶなら、確かに彼らは親友で。
それは最初からちゃんと相手という人間に惹かれているからこそで、やっぱりそれはどんな形であっても「愛」という言葉で表せるものなのだろうと思う。

ラストシーンで、娘にエマのことを聞かれたデクスターは、既にエマと結婚し人生のパートナーであったにも関わらずにこう言う。

「エマは親友だったからね。」

愛するということが相手の幸せを望むことならば、確かにエマの愛はデクスターを変え、そして変化したデクスターはエマを愛で幸せにしたのだろう。

個人的には、こういう相手がいる人に惚れてしまったら地獄だろうと思うけれども、そんな相手にめぐり合えた彼らはやはり幸せだったに違いない。

エマとデクスターが運命的な出会いをする7月15日は、
イギリスではマザーグースにも出てくる聖スウィジンという聖人を記念する日。

23年後には、私は一体なにを懐かしみ、誰を想っているのだろうか。


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