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「親友」「裏切られた」「うらやましい」… |個人的・怖いことば集。

ことばがすきで、活字がすきで、その人がどんなことばを選んでどんな表現をするのかがとても気になる。
ことば選びがなんとなく軽率な人は、ことば選びだけにとどまらないあやうさがある。

最近、明らかに具合悪そうな人に「大丈夫?」と聞いてはいけない、という記事を見かけた。そう聞いてしまうと、大丈夫じゃないのについ「大丈夫」と答えさせてしまうのだとか。
代わりに、「痛いところはある?」「してほしいことはある?」などと具体的に声をかけるのがよいそうだ。わかる!

例えば、緊張してるさなかに「頑張って!」と言われるのもソレと同じことだと思う。頑張るって、何。全然緊張ほぐれないもんな。

例えば日本では、緊張している人を励まそうとするとき、がんばって!と言いがちらしい。が。がんばって、って、がんばるってどうやって?? う、うん、と答えるしかなくて、でも、気持ちはほぐれない。
でも海外ではそういうとき、深呼吸して!などと言うらしい。なるほど!具体的!落ち着く!うん、本領発揮できそうだ。

「親友なの!」と言われるとギョッとする。

わたしは、転校の多い人生を歩んできた。そこで体得した持論が、真っ先に元気いっぱい明朗快活に話しかけてきて「くれる」子は、だいたいやばいということだ。乱暴に言うと。
かなりの確率で、その子とは仲良くはならない(仲悪くなるわけでもないが)。そういう子は、面倒見が良いということを自負していたり、面倒見良くあるべきだという無自覚な強迫観念を持っていたり、ヒエラルキーに敏感/支配されがちだったりして、とりあえず新参者の打診かつ値踏みにきているケースが多いと学んだ。

要は、わたしという人間に関心が生まれてコミュケーションとりにきた、ってワケではないということ。その点に尽きる。わたしが「目的」なのではなく、新参者を何らかの「手段」にしようとしているのだ。

そういう子がよく口にしていたのが、例えば数日、ひとまずその子とともに行動しているときに、他の子に向かって言う「わたしたち親友なの~!」ということばだ。え、親友なの?!早えよ!てかわたしは別に親友とか思ってないし!!ドン引きである。

仕事を始めてから、学生時代の知人女子がミュージシャンとしてデビューし、取材で再会したことがあった。
彼女は学生時代、わたしの友達の恋敵であった。わたしの友達はその恋に破れた。最初からあまり勝ち目のない恋だった。わたしは、友達の次の恋を応援して、その成就を喜んだ。
そんな、『友達のかつて恋敵』と、かなり久々の再会。
「ひさしぶり~!」「元気ー?!」「デビューしたんだね、おめでとう~!」とひとしきり懐かしんだあと、彼女は、レコード会社のスタッフさんに向かって、わたしの腕を取ってこう言った。「親友なんです!」。

危険信号が点灯した。
なんだ?目的はなんだ?! わたしたち、決して、親友ではなかったよね? え、彼女の親友の定義って知人レベル?? ただの愛想?? てかそんな愛想、いま要る?? 一瞬でいろんな思いが渦巻いた。今ここで「親友」ということばを持ち出す彼女に、ある種の恐ろしさを感じた。「へー!そうなんだー!」とスタッフさんは嬉々として、「じゃあ、いろいろご協力してもらおうかな!なんて!」と笑っていた。いやいやいや…。

転職したときも、転校時と同じように、率先して話しかけにきて「くれる」人がいた。大人~な個人主義者が集ってるような静か~なその職場で、その人は自分の声のなかなかのボリュームに気づいていないカンジの、すでにちょっと異端な感触の人ではあった。彼女はそんな、なかなかな声で言った。「ランチ会しようよ!他の人も誘うね~!」と。
ここの皆さんあんまりそーゆーの関心なさそうですけど…と思いつつ、彼女に任せていたら、ちょっとムリに連れてこられた感漂うドライ系女子とともに行くことになった。その女子にご挨拶などしつつ、「ふたりは仲いいんですか?」的なことをふわっと聞いたところ、ドライ系女子が答える間もなく彼女がカットインしてきた。「うん!あたしたち親友なの!!」。

わたしはもちろんだが、言われた女子も、えっ…みたいな顔をしていた。危険信号、点灯。

気になるのは各々、親友とはどういった関係の人だと思っているのか、だ。認識からそもそも違うのかもしれない。
もしくは手軽で便利なことばとして、安易に、至極カジュアルに、「親友」とやらのことばを引っ張ってきたにすぎないのか。
はたまた、明確な意図ありきで、同調圧力的にそのキラーワードを繰り出してきたのか。
まあ、何にしろ、思わぬところで親友というワードが出てきたら、総じて、やばい。

わたしの親友は。

わたしの場合、世に言う親友というくくりに入るであろう友人たちはいる。いるけれど、その友人を誰かに紹介するときに「親友ですっ!!」とは言わないなぁ…。大切な友人、旧い仲間、なんなら悪友…?

「親友です!」って、単純な疑問、どうしたら言えるんだろう。
まず、ひとりよがりの想いであれば滑稽だし、親友だよね?と確認し合うのもやだし、確認し合って位置づけするものでもないし、確認し合ってる時点で嘘だし。
親友ってきっと、自分の心の中で大切に静かにそう思っていたらよいことであって、声を大にして第三者に宣言したり、問答無用で当人に貼り付けたりするものではない気がする。
親友と名付けてしまったときから、「親友なんだからこう」とか「親友なのになぜ」とか、見えない足枷を付け合うことになってしまいそうな気がしている。そういった不自由な感じ、許されない感じが、「親友」という響きにはなぜかつきまとう。大切な友人にこそ、正直でいてほしいし、正直でいたい。

だからこそわたしは。「親友」というワードが繰り出されたら、あぶないと身構える。

「裏切られた」も同じくらい怖い。

「親友」と同じくらい、身構えることばが「裏切られた」だ。
だいたいの裏切られ話を聞いていくと、たいてい単なる被害者意識に落ち着くことが多い。そして「裏切られた」とセットで出てくることばが、「信頼(信用)してたのに」だ。信じていたのに裏切られた!ひどいやつ!わたしは被害者!かわいそう!!・・・そのコトの顛末を、原因を、すべて向こう側に押し付けてるカンジが相当に怖い。まるごと全部ひとのせい。しかもそれをまったく自覚できてないカンジが、俯瞰できてないカンジが、非常にあやうい。「裏切られた」ということばを安易に使う人には、そういったものがもうもうと立ち込めている。

信じてたのにって言うけれど、それって単にアナタの過信では?見る目がなかったのでは??   そんなふうに、自分を顧みようっていう気にならないもんかとも思う。自分にも少し非があったと、改善の余地があったと、そう思うなら「裏切られた」には行き着かない。

どんな物事も、自分のせい。自分のおかげ。

というか、だいたいの物事の良し悪しは、どんなことも「自分のせい」であり「自分のおかげ」だと思っている。
どんな良いことが起きても「自分のおかげ」。周囲の協力あっての良いことであったとしても、周囲への感謝は大前提の上、そうした協力をしてもらえる自分でよかった、という意味で「自分のおかげ」。そして、どんな悪いことが起きても「自分のせい」。思いがけない事故や事件に巻き込まれても、不条理ないちゃもんをつけられても、そのとき自分がこうしていたらわずかでも回避・防御できたかも、という学びがそこには必ずある。それを見つけることが、意義ある「自分のせい」。
傲慢になるわけでも罪悪感にさいなまれるわけでもない「自分のおかげ・自分のせい」が、いちばん平和でヘルシーに思う。

ひとのせいにし続ける限り、不機嫌からは解放されない。だいたいのムカつきやイラつきは、ひとが自分の思うように動かないことに起因している。でも、ひとは思い通りには動かせない。自分が思い通りにできるのは自分だけ。ぺこぱも言っている。相手がかぶって自分が隠れてしまうなら、相手にどけよとムカつく前に、自分が横によければいい。

だからこそ、安易に「裏切られた」とまとめる人は怖い。危険ミュージックが鳴り響く。

他にもいろいろ。怖いことば。

「うらやましい」を連発するひとも、少し怖い。
「うらやましい」と口をついて出るシーンは日常によくあるものだけど、それって「よかったねえ!」とか「いいねえ!」みたいな共感のことばにも置き換わる。のに。
「うらやましい」をやたらと連発してしまうときは、自分の不足やら欠如やらの、暗い穴の方へ引きずられ気味なときのように思う。
それは結構厄介な穴で、ものの見方や受け取り方も思わぬ方向にねじまがったりするからちょっと怖い。
うらやましい、は、うらめしいに、じきに置き換わってしまう気がしてなんだか怖い。

「ムカつく」より、「腹が立つ!」が断然おすすめ。

「ムカつく」も、連発しているとじきに凶大な黒い塊になっていくようなことばだと思っている。口にするとわかるが、ムカつくと口にしてもちっともスッキリしない。それどころか、言えば言うほど口をついて出てきては、辺りに黒々と降り積もっていくような。言えば言うほど黒く淀んで沼に沈んでいくような。

モヤモヤを吐き出したいときは、「腹が立つ!」がおすすめだ。濁点がついていて口をはっきり動かすので、スッキリ感がまるで違う。口にするとわかるが、一度言うと解放される。口から黒いものがバホッと出ていく。
なので、ムカつくが口ぐせの人は、何かにつけムカつくと連発している人は、自分の内で黒い塊をせっせと凶大にしているのだなと思って止まない。

大切な事柄に関して、「つもり」を連発するひとも距離を置きたくなる。「おまえのことは一番に考えてるつもりだよ?」とか「わたしはずっとあなたについていくつもり」とか。。そんな大切なことに「つもり」って、一体どーゆーつもり。。
そもそも「つもり」って、単なる予定に使われることばだ。「行くつもりです」「やるつもりです」「そのつもりだったけどやめました」。そこに強固な意志はまったくない。だからこそ、誠実な気持ちがあればあるほど、「つもり」なんてことばは出てこないはずなのだ。

息子は大切に育てたつもり。

だって心底好きな相手に向かって、「僕は君を愛してるつもりだよ」なんて言うか? つもりって言ってる時点で終了している。
言い訳でも、つもりが出てきたら即アウト。「ちゃんと確認したつもりなんですが・・」「言われた通りやったつもりだよ」「しつけのつもりでやりました・・」。イコール、たいして考えずにやりましたの意。ソレに関して、これっぽっちも重要なことだと思ってません、の意。
何気なく見てたテレビで、家族問題を抱える家庭の母が、「息子は大切に育てたつもりなんですが・・」と言っていておののいた。そこに「つもり」が出てくるのか・・・。

「かわいそう」も、日常よく聞くことばながら、違和感が拭えない。
中学のとき、クラスで仲間外れが巻き起こった際、仲間外れにしている側が、仲間外れにされている側の子へ、過剰に大きな声で「かわいそおぉ~~~!!!」と薄笑いで言い放っていたシーンが今も焼き付いている。
かわいそう、とは、わたしはあなたのことを哀れでみじめだと思っています、の意だと強烈に思った。
わたしはそうじゃなくてよかったと、わたしはそうなりたくないと、被害の及ばない場所でこぼしているにすぎないと。
一般的には共感して寄り添う「やさしい」ことばみたいに思われてるからタチが悪い。「同情するなら金をくれ」は、昔のちびっこの名言であり、真理だ。

「絶対大丈夫!」と言われても不安しかないが。

ところで。野球が好きで、カープが好きなのだが、ヤクルトも好きだ。村上くんとか、敵ながらあっぱれと思うことたびたびだ。
そんなヤクルトが今季日本一に輝いたが、シーズン中に掲げられていたフレーズが「絶対大丈夫」だった。
だ、大丈夫って・・・。冒頭にも書いたが、「大丈夫」ってふんわりしてることばなこと、この上ない。祈りや願いの気持ちを寄せるには、なんとも抽象的で心もとない。それに加えて、絶対など有り得ないといわれるこの世の中で「絶対」ということばのコンボ。
もはや、ツッコミどころ満載なのを承知の上で、むしろ余裕を生むためのフレーズなのだろうかと思っていた。絶対大丈夫なんてことはあるわけがない。絶対大丈夫と言われるたび、不安が募る。
そんななか、ヤクルトは見事な闘いを繰り広げた。日本一となった。

思い出すのは、真心ブラザーズの倉持くんのことばだ。
ポジティブシンキングなんて、不安を見ないようにしているだけ。都合よくイイ方に考えているだけ。現実を直視できない弱い人の考え方。
そんなようなことを、昔のインタビューで語っていた記憶。ポジティブが善とされる世の中で、それは弱さだとぶった斬ったのが鮮烈だった。
弱さや不安を紛らわせたりごまかしたりせずに、ちゃんと見つめること。そのうえで、いろんな角度から考えること。そして、考えなくてもいいことを、考えてもどうしようもないことを、考えないでいられる強さを身に付けること。

絶対大丈夫と言われると、いいやそんなわけあるか!!と不安になる。不安になると考える。この不安の種はなんなのかと。どうすればこの不安を超えていけるかと。今季ヤクルトの力は、そこだったのだろうかとも、ふと思ったり。

ことばが連れてくるきもち。ことばがあぶり出す心理(真理)。ことばって、どこまでも面白い。

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