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オリジナルな表現
またまた「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。」という本から印象に残った箇所がありまして。
それは、オリジナル表現を身につけるために、遠藤周作が作家になる前からやっていたという一寸した遊び。
その名も「ようなゲーム」。
この遊びは、相手や道具もいらないし、場所や時間も関係ない。
① 夕暮である。大きな太陽が屋根の向うに[ ]のように沈んでいく。
② 空は[ ]のような色を帯びている。
③ 豆腐のラッパの音が[ ]のように聞こえる。
④ 路を一人の[ ]のような顔をした主婦が通った。
ルールは簡単で、[ ]の部分に自分なりにぴったりと来る言葉を入れるだけ。
これは例題だけど、自分が普段目にする現象に対して、例えば、このコーヒーは[ ]のような色だ、みたいに遊び感覚で訓練していく。
このゲームを行う上で注意したいのは、
㈠ 普通、誰にも使われている慣用句は使用せず
㈡ しかもその名詞にピタリとくるような言葉を
探して当てはめること。
このゲームをぼくも試しにやってみたのだけど、かなり頭を使う。例えば、夕暮れを表現するときに、ピタリとくる自分なりの言葉を探すのはなかなか難しい。
それに、その対象を表現するには、普段以上にその対象をじっくりと観察することが必要になる。
案外、夕暮れってちゃんと見てなかったんだな、と気付かされた。
この本でも言及されているけど、夕暮れひとつとっても、春の夕暮れなのか、それとも冬の夕暮れなのか、はたまた秋の夕暮れ、夏の夕暮れ。季節によってもその印象、見え方は全然違う。
自分のそのときの体調だったり、置かれている環境によっても変わってくるだろう。
もちろん、同じ夕暮れを見たとしても、ひとりひとり違った感想を持つのはあたりまえで。
オリジナルとは、つまりそういうことなのだ。
ちなみに、作家の獅子文六は春の夕日を
「大きな熟れた杏のように」沈んでいく
と表現している。すごい。
遠藤周作は、文章が下手だという自覚があったので、朝から晩まで文章のことを考えるために、このゲームを発案し、実行していたらしい。
電車に乗る、今まではブンラリ、ブンラリ吊革にぶらさがって女のことでも考えていたのですが、その日からそうはいかない。乗っている乗客の顔を一つ一つ眺めながら、
この顔は[ ]のような顔である。
[ ]のようなお爺さんが座っている。
何から何までこの、「ようなゲーム」に換言して懸命に頭をひねらねばならぬのであるから退屈する筈がない。こうして遊びながら形容詞の勉強をしたものでした。
ぼくはまだこのやり方を試し始めて、数日しか経っていないけど、モノをじっくりと観察するようになったし、深く考えるようになった。
じっくりと観察しないと、深く考えないと、言葉が出て来ないのだ。
「今日の夕日は、どの❝ような❞夕日だろうか」
そう考えるだけでも、今日はなにか無駄な一日ではなかったと思えるし、自分なりの感性を磨くことにもなるので、一石二鳥である。
Twitter:@hijikatakata21
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