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自分の感性を信じる。

街中を歩いていると妙に気になる人に出くわすことがある。

奇抜な格好をしていたり、挙動不審な行動をしていたり、面白いトレーナー着ていたりと、わかりやすく「変だ」と目に止まる人もいるが、理由はわからないけど、なんだか気になる人もいる。

この前、ある街を歩いていたら、前の方からホスト風の男2人が歩いてきた。

風はやや強かったが、気持ちよく晴れた午後だった。

ビルが立ち並ぶ通りを、肩で風を切りながら、2人はなにやら談笑している。それだけなら、そこまで目に付かず、なんの引っかかりもなく通り過ぎたのだろうが、片方の男の手には、白い皿に乗ったケーキがあったのだ。

しかも、食べかけ。3分の2くらい残ったホールのショートケーキにラップがふんわりとかかっている。それをウエイターみたいな運び方をしながらこちらに向かってくる。

たぶん、そのケーキをある場所からある場所へと運んでいる最中なのだろう。その街はセレブな街で、なんの変哲もないケーキもなんだか高級に見えてくるから不思議だ。

お客さんに出すケーキなのか。それとも同僚の誕生を祝うためのものなのか。

ぼくは、その光景がなんだかおもしろくて、記憶の引き出しに納めた。というように、ぼくには、まったく取っておく必要がないことを記憶してしまう癖がある。

そのとき、横に友人がいたのだが、ホスト風の男とすれ違ったあと、ちらっと横顔をのぞいた。しかし、友人はその2人を特に気にする素振りはなかった。

映画やドラマを見ているとき、ぼくは、本筋とは全く関係ないエキストラの演技に目が行ってしまって、肝心の場面を見逃すときがたまにある。

ドラマや映画を見終わったあと、家族に「あの人、妙に気になったよね」と言っても、そんな人いた?という芳しくない答えしか返ってこない。温度差がすさまじい。

人が面白がるポイントや視点は違うのだなと、つくづく感じる。

あまりに世間とずれていると、少々不安になったりするのだが、いまではこれでいいと思っている。

昔は、自分が面白いと思っても、堂々と面白いと言うことができなくて、それよりもこれって「みんなも面白いのかな」と先に考えてしまっていた。

自分の価値判断より、世間の価値判断に合わせてしまう自分の弱さ。

こんな風に生きていると、自分が面白いと思っていることはどんどん埋没して、やがて見えなくなる。

『茶の本』という本がある。

その本の中に小堀遠州という茶人の逸話が出てくる。遠州の門人は、あるとき、遠州が収集するものは立派だと褒めた。その趣味は、利休をも超える。なぜなら、利休が集めたものは、ただ千人に一人しか理解するものはいなかったのだからと。遠州は、そんな門人の言葉に対してこう答えた。

これはただいかにも自分が凡俗であることを証するのみである。偉い利休は、自分だけにおもしろいとおもわれる物をのみ愛好する勇気があったのだ。しかるに私は、知らず知らず一般の人の趣味にこびている。実際、利休は千人に一人の宋匠であった。

人は、知らず知らずのうちに、世間の好むもの寄っていってしまう。そんな危うさとぼくらは常に背中合わせだ。

自分が面白いということを面白いと思う感性を磨き続け、鈍らせない。その確かな積み重ねが、ぼくという人間を作っていく。

ぼくはこのことに気付くのに、ずいぶん時間を使ってしまったのだけれど、これからは自分の感性をもっと信じていきたい。

たとえそれが他人にとって、ひどくつまらないものでも。

#エッセイ #コラム #日記


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