見出し画像

自分に対する約束

誰かに命令されたわけでもなく、誰かに頼まれたわけでもなく、ぼくは、こうやって文章を書いている。

締め切りだってないし、いつでもやめようと思ったら、やめれる状態だ。

軽い気持ちで、ぼくはnoteに書き始めた。

自分が面白いと感じたこと、考えたこと、あるいは思い出の数々を思いくつくまま書いてきた。書くものが何も思いつかなかったら、やめればいいしと、自分の心に逃げ道をつくって。

そして、このnoteで書きはじめて、まもなく2か月がたつ。

ぼくは、「月・水・金に更新」というのを自分に課して、なんとか守ってきたが(毎日書いている方には、尊敬の念しかない)、それでも「今日はめんどくさいな」と思うことがある。

今日は体調がすぐれないし、きっと何を書いてもつまらないものしかできない、と自分に言い訳して、何度も逃れようとしたり、単純に気分が乗らないと、パソコンをシャットダウンしようとしたり、自分のふがいなさを感じることもたびたびあった。

できなかった言い訳はやまのように思いつく。ずいぶん脳の無駄遣いをしている気がする。

もし誰かに頼まれたという形なら、自分がさぼってしまうと、多くの人に迷惑がかかる。

気分が乗らないとかめんどくさいという理由で、仕事をほっぽり投げたら、怒られるのは間違いなく、いやむしろ呆れられて、信用はガタ落ちだ。

そんなとき、締め切りが短すぎてとか、プレッシャーが半端ないとか、出来なかった理由を他人に押し付けることだってできる。

一方、人知れず書いているぼくは、たぶんやめても誰からも怒られることはない。

楽しみしてくれている人がいるかもしれないが(いて欲しい)、もし更新を怠ったとしても、怒られることはないだろう。

そう始めたころは思っていたのだが、いまはすこし考えが変わった。

もし、このnoteで書くことをやめてしまったら、なにより自分ががっかりすることに気付いたのだ。

やめてしまったら、すべて自分に返ってくる。責任の所在は自分にしかない。

自分で始めたことだから、他人に出来なかった理由を求めることはできないし、すべて自分の至らなさの結果なのである。

そう考えると、自分に対する約束を守るというのは、なかなかしんどい作業なのかもしれない。

愚直に続けるというのは、大変なことだ。

いつでもやめられるけど、そんな自分をぼくは見たくないと思う。

誰に見張られるわけでもなく、強制力もないのに続ける大変さをいま身に染みて、理解している道の途中だ。

たとえ誰も見ていなくても定期的に続ける、そこに信頼が生まれる。

「月・水・金」という更新もいま思えば、続けるということを前提に設定したものだ。

「いつでもやめれる」と心に逃げ道をつくったと思っていたが、ぼくは、同時に最初から続ける覚悟もしていたらしい。

さぁ、続けよう。まだまだ道半ばだ。

***

年内、最後の更新になるので、振り返りを。

最初のエッセイを書いて、公開したときは、ものすごくこわかったし、ふるえました。

こんな素人の書いたもの読んでくれるんだろうか、まったく反応がなかったらショックだなとか、悪い方にしか考えられなくて、心臓をバクバクさせながら、なんども公開ボタンを押すのを躊躇していたのが、昨日のように思い出されます。

「えぇい、どうにでもなれ!」といった気持ちで、公開ボタンを押したあとも、そわそわしていて、「スキ」が押されたという通知が来たときは、ヤッターと叫びたくなるくらい、ほんとうにうれしかったです。

少なからず見ていてくれる人がいるのだ、ということが励みになって、次も書こうという気持ちを後押ししてくれました。

こころ優しいnoteユーザーのみなさん、twitter経由で見に来てくれるみなさん、ほんとうにありがとうございます!

これを読んでくださっているみなさんにとって、2018年がいい年になりますように。

来年もよろしくお願いします!

#エッセイ #コラム #日記


☆ツイッター(@hijikatakata21)もやっています。よかったら、フォローをお願いします。読んだ本の感想などつぶやいています!



最後まで、読んでくださってありがとうございます!